yakumo
とある戦跡と自衛隊
基本、個人の記録用であります。 細かい事は気にしないので、間違い等要スルー!京都放浪記も戦跡に関係無く掲載してます。
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最後の学生動員 昭和21年4月の新学期から、日本が大東亜戦争に勝つ為君達は社会勉強の一環として飛行機製作所にゆき飛行機作りの手伝いに行く事になったと先生から告げられました。私達2年3組は戦闘機の組み立て工場に行き頑張って国の為に尽くしてくれと先生の訓話で、翌日から会社の送迎バスで飛行機製作所の組み立て工場に行き初日からキ84式戦闘機のコックピットの説明があり、その座席の低さに驚き説明を聞き乍その理由がわかりました。低いのは座席の上に折畳んだパラシュ-トを乗せ其の上にパイロットが座ると説明され納得しました。私が不思議に思ったのは座席全体がベニヤ板製で鋼板はどこにも用いられていないのです。 (私は昭和20年初頭に土浦の海軍航空隊の飛行機と米国の戦闘機との空中戦を目撃しましたが惜しくも日本の戦闘機がやられパラシュ-トで降下した時の様子は今も脳裏から離れません、後日談としてパイロットは戦死したそうです、黙祷)もし後ろから機銃で撃たれたらパイロットは勿論飛行機もろとも墜落すると思っていましたが言えず、自分なりにこれが日本の飛行機と思いながら説明が終わったのです。最初はカッコいい飛行機と思って喜んで工場にゆきました。工場は少数のベテラン職人と男子生徒と女子生徒ばかりで中に兵隊さんも働いていました。 たまたま工場内を15人位の部下を従えて夫々白い手袋をはめ偉そうに巡回団を目撃しました。巡回した人達は工場長と技師と聞き、将来は技師になりたい思い遠くからみていました。 工場から完成した飛行機は毎日10機程滑走路に運びその1割程度が遥か戦地に飛び立って行くのだったのです、この数値は極秘だそうです。 当事の作業を思いだそうとしますが記憶がはっきりしていないのです。 その後この工場は敵に狙われているので市外の大谷石採掘後の地下工場に行く事に変更になったと知らせられた。 工場の入り口はいつも着剣した銃を構えた衛兵が立ち自由に出入りが出来ず先生の引率で出入りしたのです。地下工場は地下百尺の所に地上からトラックの出入り出来る道を作り工場の中に工作機械を据付て裸の電球がぶら下っていました。私達は地上に近い所に飛行機部品のメッキをする工場に配置転換となり、その時にコ゜ム長靴が支給それその長靴を履き乍の作業でして。地上に近い作業場だったの電灯つかなくても比較的明るかったが、地下百尺の中の工場は停電すると一寸真っ暗で上からかすかに太陽の明かりみえるのみです。電灯が付いている時は機械の回っている音だけですが、停電となるとあっちこっちから女性の悲鳴が聞こえ(キヤ-とか○○ペ-)るのです。 案外男子は停電のあるのを待ってたのしんでいたのかも知れません。
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