観音崎砲台 第三砲台観測所及び大浦堡塁

三軒屋砲台掩蔽部

迷彩の残る砲座を横目に見ながら第三砲台を目指す

道中陸軍の標石が並んでいる

観音崎公園の園路は基本的に当時の軍道を整備拡張してある

拡張整備の際に抜かれた物、埋められた物も多々ある

路肩を良く捜すと、まだ結構な数が確認できる

切り通しの付近には、砲台への門柱の片方が残っている

旧火薬庫の屋根が眼下に見える

大浦堡塁に立ち寄る

大浦堡塁は直接湾内に進入した敵艦を攻撃するのではなく、砲台の裏側から攻めて来る敵に対する防御陣地だ
現在は公園化の為、壁の一部と階段の一部のみが残る

9糎カノン砲右翼砲座


明言されていないが、進徳丸の錨なのだろう
神戸高等商船学校の練習帆船として竣工、1944年9月に三菱造船神戸造船所で帆装が撤去され汽船練習船となるが、その後石炭輸送に従事していた。1945年(昭和20年)7月24日に米軍の艦載機の攻撃を受け、火災を伴う大きな被害を受け、着底した。
1946年(昭和21年)8月19日に浮上修理後練習船となるが、引き揚げ輸送等にも従事。
1963年(昭和38年)3月31日に廃船となった。1923年起工から40年と長い航海だった。
更に1995年の阪神・淡路大震災により台座が損傷、修復不能となる1966年まで、船体は残されていた。約76年と長寿の船だった。

戦没者慰霊碑に一礼し次に向かう

第三砲台(旧第四砲台)到着、旧第三砲台が除籍となった為、繰り上げとなった。
更に入り口に第一展望台などと書かれている為、非常にややこしくなっている。

トンネルを通らないと行き来出来ない砲台

切り通しがエモい

山によじ登る

かすかに道の形跡が最初はあるが

途中から全く無くなり、判別不明になる(横はガケ)

途中、地滑りで完全に寸断されるので、お勧めは出来ない

諦めかけた頃、やっと姿が見えた

第三砲台には右翼、左翼共に観測所が現存しているので、この観測所は旧第三及び三軒屋砲台等と共有の山頂観測所だろう

風雨に晒され、地盤が危うくなっている、いずれ滑落する時が来るだろう

既に半ば割れているが、これが近年の崩壊か、関東大震災の被害かは不明

この観測所は他に類を見ない円筒形構造をしている

中に入ると床面はコンクリート製

内径は2m無いぐらいで、観測器を置いたらえらい手狭だ、内壁も高く胸の高さほどある

観測所入り口

刻印煉瓦も多用されている

小菅集治監の複弁の刻印

何らかのフックが並んでいる

測袁基台は煉瓦をモルタルで塗ってある

土台も煉瓦だ

小さいが、とても良い遺構なので、同好の人は見付けて欲しい物だ

帰りは尾根ルート(本来の軍道)から戻る(行きは倒木で迂回して来た)

するとすぐそばに3本の測袁基台が現れる

夏なんかに来るもんじゃ無いな

なぜここに露天で台座だけあるのかは不明だ

八角形の台座で測袁基台には間違いないだろう

下界に降りて来た

ガキの頃は何も考えずに飛び込み台として遊んでいたこれも、砲台遺構だ

資材運搬から砲弾陸揚げに至るまで使われた桟橋とレールの跡が見る目を変える

さて、横浜に帰るとしよう!
スポンサーサイト