長崎薬専防空壕跡 大村海軍航空隊掩体壕 第二一海軍航空廠本部庁舎跡地及び防空壕
長崎市内で、簡単に観れる遺構を飛行機の出発間際に回って来た
遠征において、飛行機の時間は遅く設定出来ても、レンタカーの返却時間は18時~18時30分という不文律がある
ガソリン給油、返却地への行程を考えると、30分ほどは早く行かなければならない。
自分の車では無い事のデメリットだ。
最後のギリギリまで行ける所だけ回って来たのだ

長崎医科大学の裏山

ここは当時の射撃場だったらしい

今は壕口も埋められ、慰霊碑だけが建っている

説明板

射的場 防空壕跡 平和と彫ってある

かすかに幾つかの壕口の跡が伺える


何故か隣にある中国人原爆犠牲者追悼碑

大村市にある下原口公園

ワシントン海軍軍縮条約の発効とともに、海軍は補助戦備の大転換を画策し、航空隊の増強を狙った。従来の航空教育は横須賀海軍航空隊が担っていたが、大増強のためにはさらなる飛行場と航空隊が必要であった。そこで、東日本と西日本に大規模な航空基地を設置し、基礎訓練から実用機慣熟訓練までを一貫して行う教育航空隊を設置することとした。東日本に設置したのが霞ヶ浦海軍航空隊、西日本が大村空である。以前より航空船訓練や暫定飛行場として使用実績がある霞ヶ浦とは違い、大村は一からのスタートとなった。佐世保鎮守府に近い平坦地で、陸軍歩兵第46連隊の衛戍地として軍への協力が取り付けやすい長崎県東彼杵郡大村町(現・大村市)の海岸に滑走路を設置し、横空・佐空・霞空に続く第五の海軍航空隊として開かれた。大陸に最も近い航空基地として、日華事変の際には木更津海軍航空隊の渡洋爆撃基地として機能し、また、手狭な佐世保飛行場に代わって佐世保海軍航空隊戦闘機隊が駐留していた。(ウイキペディア)
うい
掩体壕の背側面は、遊具としての第二の人生?を歩んでいたが、昨今の公園事情により封鎖されている

掩体壕正面

斜めから見ると、庇のある陸軍式はともかく、このような段付きの前面部は珍しい

内部は長らくこうえんの倉庫として使われていたらしいが、整備されている

背面部はかなり雑なコンクリートの塗り方で、型も使われていない

戦跡の平和利用としてはいいと思うが、出来ればそっとしておいて欲しかった

とあるスポーツ広場の隣に

異彩を放つ小山がある

本部庁舎は跡形もないが、防空壕は残っている

平地で山の無い飛行場は、こんな感じの防空壕にならざるを得ない

最近出来たばかりの様な碑が建っている

左右に同じような爆風除け付きの入り口がある

通路は貫通しているが、内部への入り口はブロック閉鎖されている

上部のコンクリートも分厚く盛られている

天井にはヒューム管が2本出ている

反対側の出入口

配電盤のケースが残っている

左側の裾は、崩れ止めか、近代コンクリートの補強が入っている

かなり雑な乗っけただけの補強と言うか土留めかな?

こちらもそうだが、ガレキぐらい片付けてもいいと思うのだが

にゃんこに雨宿りぐらいさせてやってくれ

こちらサイドは全体的にコンクリートの土留めが入っている

これにて長崎の戦跡訪問を終える

レンタカーを返却し長崎空港に着くと、既にほとんどの店が閉まっている

ほぼ唯一開いていた空港レストランで晩飯を食う

長崎空港特製ハヤシライス

驚いたのはこちらのミルクセーキ。長崎のミルクセーキは食べ物だそうだ(結構美味い)

ほとんど貸し切り状態の機内

長崎の夜景を見ながら飛び立つ

今度はいつ来れる事やら

東京に帰って来ると、光の密度が違う

見慣れた建造物が安心する

同時に旅の終わりが物さみしい

明日からの仕事を考えると、また長崎に逃げたくなる
遠征において、飛行機の時間は遅く設定出来ても、レンタカーの返却時間は18時~18時30分という不文律がある
ガソリン給油、返却地への行程を考えると、30分ほどは早く行かなければならない。
自分の車では無い事のデメリットだ。
最後のギリギリまで行ける所だけ回って来たのだ

長崎医科大学の裏山

ここは当時の射撃場だったらしい

今は壕口も埋められ、慰霊碑だけが建っている

説明板

射的場 防空壕跡 平和と彫ってある

かすかに幾つかの壕口の跡が伺える


何故か隣にある中国人原爆犠牲者追悼碑

大村市にある下原口公園

ワシントン海軍軍縮条約の発効とともに、海軍は補助戦備の大転換を画策し、航空隊の増強を狙った。従来の航空教育は横須賀海軍航空隊が担っていたが、大増強のためにはさらなる飛行場と航空隊が必要であった。そこで、東日本と西日本に大規模な航空基地を設置し、基礎訓練から実用機慣熟訓練までを一貫して行う教育航空隊を設置することとした。東日本に設置したのが霞ヶ浦海軍航空隊、西日本が大村空である。以前より航空船訓練や暫定飛行場として使用実績がある霞ヶ浦とは違い、大村は一からのスタートとなった。佐世保鎮守府に近い平坦地で、陸軍歩兵第46連隊の衛戍地として軍への協力が取り付けやすい長崎県東彼杵郡大村町(現・大村市)の海岸に滑走路を設置し、横空・佐空・霞空に続く第五の海軍航空隊として開かれた。大陸に最も近い航空基地として、日華事変の際には木更津海軍航空隊の渡洋爆撃基地として機能し、また、手狭な佐世保飛行場に代わって佐世保海軍航空隊戦闘機隊が駐留していた。(ウイキペディア)
うい

掩体壕の背側面は、遊具としての第二の人生?を歩んでいたが、昨今の公園事情により封鎖されている

掩体壕正面

斜めから見ると、庇のある陸軍式はともかく、このような段付きの前面部は珍しい

内部は長らくこうえんの倉庫として使われていたらしいが、整備されている

背面部はかなり雑なコンクリートの塗り方で、型も使われていない

戦跡の平和利用としてはいいと思うが、出来ればそっとしておいて欲しかった

とあるスポーツ広場の隣に

異彩を放つ小山がある

本部庁舎は跡形もないが、防空壕は残っている

平地で山の無い飛行場は、こんな感じの防空壕にならざるを得ない

最近出来たばかりの様な碑が建っている

左右に同じような爆風除け付きの入り口がある

通路は貫通しているが、内部への入り口はブロック閉鎖されている

上部のコンクリートも分厚く盛られている

天井にはヒューム管が2本出ている

反対側の出入口

配電盤のケースが残っている

左側の裾は、崩れ止めか、近代コンクリートの補強が入っている

かなり雑な乗っけただけの補強と言うか土留めかな?

こちらもそうだが、ガレキぐらい片付けてもいいと思うのだが

にゃんこに雨宿りぐらいさせてやってくれ

こちらサイドは全体的にコンクリートの土留めが入っている

これにて長崎の戦跡訪問を終える

レンタカーを返却し長崎空港に着くと、既にほとんどの店が閉まっている

ほぼ唯一開いていた空港レストランで晩飯を食う

長崎空港特製ハヤシライス

驚いたのはこちらのミルクセーキ。長崎のミルクセーキは食べ物だそうだ(結構美味い)

ほとんど貸し切り状態の機内

長崎の夜景を見ながら飛び立つ

今度はいつ来れる事やら

東京に帰って来ると、光の密度が違う

見慣れた建造物が安心する

同時に旅の終わりが物さみしい

明日からの仕事を考えると、また長崎に逃げたくなる
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