貝山地下壕 その13 (海軍航空技術廠)が第一海軍技術廠であり、その支廠が今回紹介する第一海軍技術廠支廠となる、大戦末期に海軍航空技術廠は金沢区の釜利谷に兵器部と爆弾部を主体とした支廠を設けることとなった。
今までの海軍航空技術廠は電波、音響部門を独立させた「第二海軍技術廠」も分離したので大きく3つに分かれた事になる。
支廠は、開設当時は、総務部、会計部、医務部のほかに、兵器部、爆弾部の2作業部であったが、その後の新設改変により、最終的には、射撃部、爆撃部、製鋼部、雷撃部、火工部、光学部、計器部、電気部の8作業部となった。
一般的には
六浦地下軍需工場その2(本坑)の方が有名であるが、これだけでは無いのだ、現在見れる遺構としては①六浦海軍貯水池、②防空機銃砲台、弾薬庫壕、が見る事が出来る
俗にゆう六浦地下軍需工場以上に馬鹿でかい壕があるのだが、現在は入る事が出来ない。
この他にも山の先端部にある③手子神社には現在は入れなくなったが、多くの壕口が見て取れる
また、近くの④釜利谷第二公園には、第一海軍技術廠支廠跡記念碑が立っている。

①六浦海軍貯水池 ②防空機銃砲台 ③手子神社 ④釜利谷第二公園

①六浦海軍貯水池は上空からでも見る事が出来る(真ん中)、通称4つ池と地元では言われる

地図にもはっきり記されている

目的の上り口はここ、グラースの森と言われる所だ

ひたすら鬼のような階段を登る、画像は極一部

これが遺構のある山だ、後にこの画像はまた使う

崖の下に貯水池が見えて来た

横から見ると実にキレイな造りをしている様に見えるが、ここだけである

このように4つに区切られているが、未完成の貯水池だ

石垣とコンクリート壁が交互に並ぶ

取りあえず下に降りて行く

基本的には全周金網で囲まれているが、一箇所だけ開いている

しかしそこには落ちて来た落石が鎮座し、乗り越えなければ先に進めない

乗り越えた方向を振り返りと、降りて来た崖が見える、割りと高かったようだ

幅は50cmほどあり、余裕で歩ける

鉄製の梯子があるので下に降りる事が出来る

時折魚が跳ねている

水鳥もいる

このアーチを見る為に、降りてみるのも悪くない

上から見るとこんな感じ

貯水池自体はほぼ完成しているが、ここからの水路が出来ていない様だ

さてそれではまた、枝に掴まりながら崖を登る

貯水池の反対側に行く、全面コンクリートでは無い様だ

割りと深い通路が掘られている

建物が有ったのか、コンクリート基礎も見受けられる

通路のクランク部分

曲がった後は、埋っているのか登って平地に戻る

通りすがりの斜面にあった壕跡

もう一つあった

下まで降りて来た

先に使った写真のあたりに下りて来る、この崖の前の空間が射場になる

右下の丸い部分が2枚目の写真のアンテナの所になると思う、図の上面はニューライフ金沢文庫の造成で削り取られ、道も変わってしまっている

塞がれてはいるが、大型の壕口が確かに地下工場の存在を語っている

手前の方にも壕口を見る事が出来る

わりと大きい壕口だが埋め戻されている

もっとも手前の壕口は完全封鎖

ヌコが見ている

また山に登り、②機銃砲台と言われる遺構にやって来た、「坂井久能著「名誉の戦死」に、「東急車輌製造(株)西側山頂の防空砲台跡」という遺構が掲載されています」とHAL様から情報を頂き、機銃砲台であるとの裏付けが取れた

これは砲座下側の弾薬庫と言われる部分

通り抜けると砲座に出る

全体図、弾薬庫直通とは機能的である、他に類を見ない構造だ

恐らく13mmか25mmの単装機銃砲座と思われる

弾薬庫は小さく、部屋とは言えない窪みがある程度だ(人物比 東雲みょん氏)

途中の山肌には、弾薬庫がある

入り口には金網や枝などが捨てられている

L字に曲がって終息

壕口の半分は土嚢で塞がれている

壕の下にはここへの軍道らしき道がある

山を降りて、③手子神社に向かう

神社自体は戦跡に関係無い

手子神社手前の交差点から壕口が見える、1mほど前の道が高くなっている様だ

地下工場の反対側になる

物置の裏にもある

④釜利谷第二公園に向かう

場所

第一海軍技術廠支廠跡記念碑

裏面

錨と桜が何ともいい
今回の記事はまったくUPするのを忘れていた部分を適当につなげ合わせてみた、HAL様に言われるまで
本当に自分では上げているつもりでいたのだ、恐らく機銃砲台の裏付けが無かったので、先送りにしていたのだろう、②の機銃砲台の位置は適当であって、ピンポイントではない、山道なので特定不能なのだが、基本一本道なので迷う事は無いだろう。
貯水池は危険が伴うので外から見るだけが良いだろう、機銃砲台は現在子供の遊び場として後世を過ごしていた。