戦時債券(国債)

債権(債券)とは?

「国家、公共団体、銀行、会社などが必要な資金を借り入れる場合に発行する公債、社債などの有価証券。」

昭和六年九月一八日、満州事変が始まったが、事変は拡大しついに日中戦争に発展した。
そのため、昭和十二年九月十日、臨時軍事費特別会計法、臨時軍事費支弁のための公債発行にかんする法律の
公布があり、臨時軍事費調達のために各種公債が終戦まで大量に発行された。
債権の価格や償還方法は色々あり、支那事変国債は利子付、戦時貯蓄債権は無利子だが割引販売、抽選により割増になり償還期日が早くなった、戦時報国債権は無利子で割引販売はなかったが、抽選による割増金額が貯蓄債権に比べてはるかに高額であった。

国債の一般への売出しは郵便局で行われ、戦時債券については郵便局、各種金融機関のほか、たばこ屋やデパートなどでも行われ、大衆の購買に便宜が図られた。
また、国債と戦時債券の売出日を合致させたり、その宣伝を共同で行うなど、債券の市中消化については相当の努力が図られたようだが、このことも当時の日本が、いかに大規模な資金調達を行っていたかを物語るものと言えるだろう。

戦後のインフレ、貨幣価値の変貌により、簡単にゆうと1万円が300円程度になってしまいましたとさ

支那事変国債(事変であって、戦時ではない)
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第14回貯蓄債券(利子が付く)日本勧業銀行
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第19回貯蓄債券
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第三回、シンプル 郵便局
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第4回報国債券、昭和17年1月発行なのに、間に合わなかったのか支那事変のまま販売されている

戦時貯蓄債権
日本勧業銀行
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第1回建設貯蓄債券(建設?)
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第8回戦時報国債券
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第9回戦時報国債券
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第10回戦時報国債券
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第19回戦時報国債券連番
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第20回戦時報国債券
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第2回戦時貯蓄債券
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第4回5回戦時貯蓄債券
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第3回戦時報国債券
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第4回戦時報国債券
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第13回特別報国債券

郵便局
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第6回大東亜戦争割引国庫債券10円
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第6回大東亜戦争割引国庫債券20円
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大東亜戦争第1周年記念
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32分割で返還される
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半年に1回ずつ
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裏側、爆弾マークがいい
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戦車、山砲、音響兵器、高射砲、軽機関銃、軍刀、えんぴ、鍵棒などが描かれている

戦時郵便貯金切手(弾丸切手)
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通称「弾丸切手」と呼ばれた郵便貯金切手。
昭和17年6月より1枚2円で売り出され、売り出し終了後5日目に抽選が行われ当選すると割増金が支払われた。
この切手は5枚以上まとめないと郵便貯金に預ける事ができなかった。
また発行より5年過ぎると預け入れができなくなった。
裏面には割増金の受領書とともにこれらの事が記されている。
これによる収益は国債消化の資金にあてられた。
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大蔵大臣印があるから、郵便局だろう

自分の個人所有している物だけ紹介した、この他にもいろんな債権が存在していると思われる
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海軍工機学校(機関学校)

海軍工機学校は、大日本帝国海軍における機関術・造船術の専門家を養成する教育機関のことである。
海軍機関学校を卒業した機関科将校の教育・研究・実験を推進する普通科・高等科・専攻科・特修科と、機関兵・機関下士官の訓練・実習を推進する普通科・高等科を設置し、技術者として必要な知識と技能の習得を図った。
1884年7月に、下士官相当の技官を横須賀造船所に派遣して実習を行ったのが機関教育の嚆矢である。

艦艇に乗船して機関を操作する機関工か、海軍工廠で造船に携わる船匠・鍛冶となるために教育を受けた。
海軍直属の技官を必要としない平時には、民間の技術者へ転出できることになっていた。
諸制度の変遷を経て、1897年9月に「機関術練習所」が開かれ、機関・船匠・鍛冶の3コースが設定された。

兵科の海軍砲術学校・海軍水雷学校と同時に「海軍工機学校」へ改編され、機関将校を学生、機関兵・機関下士官を練習生として教育を開始した。
しかし兵科よりも格下と見なされていた機関科に対する偏見が根強く、機関術・造船術に高等教育は不要とする意見や、練習生は訓練・実習さえ繰り返していれば事足りるとする意見が多かった。開校から僅か7年、1914年4月1日をもって、初代工機学校はあえなく廃止され、練習生の教育は機関学校に新設された普通科と高等科で継続することとなった。
石油専燃のボイラーやタービンが一般化し、航空機や潜水艦などの新兵器も急激に浸透した。これらの新技術や新兵器に対応すべく、機関学校での教育は重要性を増し、造船・造兵の現場では、質量ともに優れた技術者を多く求めるようになり、1928年6月工機学校が復活、復活前と同様、士官・准士官を「学生」、兵・下士官を「練習生」として教育した。
1941年4月に「海軍工作学校」が新設され、工作術の教育は工作学校へ移譲された。
1945年3月、機関学校の兵学校統合が完了したため、工機学校がその名を継承して新機関学校を名乗るとともに、大楠分校を本校に昇格することになった。横須賀校は学生に対する教育を行う一方、大楠校では練習生に対する教育を推進した。しかし7月15日、大楠校は各種術科学校と同様に繰上げ卒業が行われて閉校となり、施設は本土決戦部隊に接収された。

終戦とともに横須賀校も閉校となり、激動の変遷を繰り返してきた工機学校の歴史は終わった。
現在横須賀米軍基地、神奈川歯科大、横須賀学院などになっている。
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海軍工機学校正門、向こう側は横須賀米軍基地
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正門左側の壁
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左側の門柱(内側から見て)、凝った造りをしている
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右側の警告
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門柱の両脇だけ塀が無い
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内側の正門が無くなり、通用門が残っている部分のようだ
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右側の壁は基地沿いに続いている
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実際にかなり基地内には旧軍時代の壁は残っている
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これなんかも、当時のままだ
横須賀鎮守府・横須賀海軍工廠 194_R
第6ドックは多少改造されているが原型を留めている
横須賀鎮守府・横須賀海軍工廠 222_R
なんでペンキはそこまで?
横須賀鎮守府・横須賀海軍工廠 273_R
横道にそれたが、色々残ってた、本題に戻る
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中庭に行く
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早咲きの梅と軍人勅諭(陸海軍軍人に賜はりたる勅諭)
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右の五ヶ條は軍人たらんもの暫も忽にすへからすさて之を行はんには一の誠心こそ大切なれ抑此五ヶ條は我軍人の精神にして一の誠心は又五ヶ條の精神なり心誠ならされは如何なる嘉言も善行も皆うはへの裝飾にて何の用にかは立つへき心たに誠あれは何事も成るものそかし况してや此五ヶ條は天地の公道人倫の常經なり行ひ易く守り易し汝等軍人能く朕か訓に遵ひて此道を守り行ひ國に報ゆるの務を盡さは日本國の蒼生擧りて之を悦ひなん朕一人の懌のみならんや

明治十五年一月四日御名(明治天皇)ちなみに陸軍では御名を「おんな」と読む
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裏面
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本当は、めちゃくちゃ長い本文がそれぞれあるが、簡略化し冒頭の1文のみが一般に知られる
興味があったら見て下さい、軍人勅諭全文。
後のいわゆる戦陣訓とは、全く違うものである
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灯篭の一部、なんでこうなった?
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古い煉瓦なので撮って来たが、防火用水って事も無いだろうな~
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汐入に戻り、うろついていると古い煉瓦の建物発見!
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詳細不明(kan様より横須賀建築探偵団 発行の「建物で読む横須賀」には、海軍関係の倉庫と書かれていたとの情報をいただきました)
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腹が減ったのでパンを買う   ぱんプキン
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中に福神憑けが入っていて、なかなか食感がいい
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どぶ板あんぱん(こしあん&クリームチーズ入り)
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横須賀海軍工廠汐入壕を見に行った
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真新しいプレート
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また一つ、戦跡が消えた
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隣接する慰霊碑
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海軍工廠などで働いていた犠牲者を供養するもの
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大将12年の手水鉢
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読みにくいが、軍需部、女工一同と書いてある
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碑の裏側には埋め戻された壕口がある
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無事な方の壕口から入る
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立派な壕口、立派な階段、だがここまでだ
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すぐに素掘りの壕になる
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しっかりした壕なのだが、硝石が染み出しているせいで、汚く感じる
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通路の盛り土
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見上げると大穴、千代ヶ崎で見た穴に似ている
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慰霊碑裏の壕口に繋がる
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外から覗き込む、キレイになっている、調査が入ったのだろう
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米ヶ浜に富士壕、桜壕を見に行く
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完全に亡くなっている
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大津ヒギンズ邸(重砲兵学校校長邸)に来た
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あとはコンクリートを流すだけ
横須賀市の戦争遺跡は、急激に無くなっている、行けるうちに行かないとどんどん無くなる
無くなるのは止められない、せめて写真と記憶に残して生きたい・・・
体力のある内に出切る限りの探索を行って行きます!
未見の近隣情報を求めます!!

26年11月18日追記

kanレポートのkan様に情報を頂いて、やっと再訪の機会が訪れた、大学構内なのでちょっと入りにくい
実際は守衛に許可を取れば入れるし、図書館も一般に開放しているのだが敷居が高い気がする。
しかしやっと海軍工機学校(機関学校)のレンガ倉庫を見る事が出来たのだ。
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蔦が茂っているが、状態は悪く無いようだ
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こちらの窓はコンクリートと鉄格子で埋まっている、オリジナルだろうか?
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右の扉は、壁をぶち破って無理やり付けたようだ
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日陰側は蔦の勢力が強いようだ
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何とかこのまま残しておいて欲しいものだ
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ここからフェンス越しに米軍基地内の旧海軍病院が見える
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奉安殿も垣間見る事が出来た

kann様情報提供ありがとうございました!

横須賀海軍下士官兵集会所(EMクラブ)

EMクラブとは、関東大震災後に被災して建て替えられ、昭和13年5月に新築された下士官兵集会所。
左側が宿舎、浴室、食堂、売店など。右側は1階は相撲場、柔剣道場、2・3階は劇場で、多くの軍人やその家族の利用があった、戦後は駐留軍のEMクラブとして使用されていたが、右側半分は、アメリカ軍の施設となった時に取り壊され、左側半分だけが使われていた。
昭和58年10月、日本政府に返還され、汐入駅前再開発に伴い、1990年に「さよならEMクラブ記念式典」が行われた後に解体された。

現在は、横須賀芸術劇場、メルキュールホテル横須賀になっている。
遺構としては、唯一軍港めぐりのメインターミナル(EMクラブをイメージしている)のフロントの天井に、EMクラブ解体の際に、米軍から隣接するショッパーズに寄贈された、シャンデリアがある、元は映画館に展示されていた物だ。
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米軍の空撮写真、下に下士官集会所が見える
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初代下士官集会所、関東大震災で被災した後、解体
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建て替えられた、下士官集会所
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昭和2年震災復興後の下士官兵集会所
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摂取後、星条旗の翻るEMクラブ
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入り口に注目
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冊子に残る当時の入り口、軍港めぐりターミナルはこれを模している
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現在の入り口
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中の当時のオリジナルシャンデリア
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店の前の路面に錨のモチーフが踏み絵になっている
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現在の建物は、EMクラブをイメージしているそうだ
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塔状の部分だけ似てるかな?
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16号線沿いの駐輪場に案内板も無く、ひっそりとある
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横のステンレスはビルのイメージだろうか?

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汐入駅の裏手にまわると壕を塞いだ壁面がある
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どぶ板方面に歩く、あちこちに形跡はある
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宅地化が進み、入る余地は無い
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諏訪公園に登って来た
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入り口前には当時っぽい階段がある(もちろん鉄柵は後付け)
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明治天皇御駐碑、横須賀製鉄所視察のため訪れた記念碑
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石碑の碑文は、元帥東郷平八郎による
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当時の錆びた鉄柵
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角の石柱部分はごつい
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灯篭でも立っていたのだろうか?
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手水鉢があったと思われる場所
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何故か近くに転がっている
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猫塚があるそうだが、見つからないので反対側に降りる
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階段途中にある横須賀市の石柱
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下にも境界石がある(上部は境界線を示す)
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居酒屋「(空母)信濃」この扉は実際の米空母のものだそうだ
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ここにさっきの境界柱と同じ上面がある、隣は戦艦大和の消火器との事だが・・・・
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日章旗の立ったキャベツ盛り
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自衛隊員などが、帽子を寄贈するとボトルキープが出切るようになるそうだ
同期の櫻様から頂いた写真で紹介した、残念ながら自分は下戸で縁遠い場所だ
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本日のぬこ

先月に続き、モデルアート(月刊)3月号に自分の提供した資料が掲載されました
ご覧になって下さい!
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見開きで2ページ

追記
KURO様より、EMクラブの解体直前期の貴重な写真を頂いたので、ここに転載させて貰う
昭和の横須賀を懐かしむ人には、たまらない写真だ、ドブ板や逸見営門の写真も同時掲載!
余計な文面は入れないので、堪能して下さい
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とても懐かしい写真を、ありがとうございました!
また、東京靴下(株)横須賀工場やその前の引込線等の写真をお持ちの方、こちらに掲載させて頂きたいので
営利はありませんが、御協力お願いします。

F号倉庫(軍需部修理場)近況H.26.1

先日横須賀に行く途中、比与字の前を通ったついでに、久しぶりに歩いてきた
向こうに行く時は、大抵通るようにしているが、止まる事は最近無かった
近況と言っても、特に変わりがある訳ではない、ただヌコがいたので記事にする気になった
以前書いた海軍軍需部長浦倉庫郡を参考に
海軍通信教育発祥の碑_R
第二術科学校
自衛隊横須賀病院_R
自衛隊横須賀病院
横須賀造修補給所表_R
唯一煉瓦が露出している旧軍需部倉庫(第二計器庫)
軍需部修理場跡_R
田浦駅前を曲がると見えて来る、写真は2009年のもので、まだ稼動している頃だ
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翌2010年後半には、稼動停止となる
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すでに、ベルトコンベアーなどは解体されている
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その頃のヌコ
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2011年8月には、売却物件になっている
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2013年には金網が付いた
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売却物件の札が無くなっている
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裏口、庫内禁煙がかすれてる
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反対側
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そして2014年1月現在(ヌコはどこにいるでしょうか?)
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開けっ放しの窓
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2階のベルトコンベアーが付いていた部分、壁面に正の字が白墨で書いてある
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名板
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ヌコはここにいる、ずっと動かない
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5分後、動いた!
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側面のモルタルがはがれ、煉瓦が露出している
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この倉庫は外見と違い、煉瓦製なのだ
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倉庫脇には当時の鉄筋入りコンクリート柱が横たわっている
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コンクリート壁が崩壊していた
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危うくF号倉庫が傷物になる所だった
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見上げると、やばそうな物がぶら下がっている
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こちら側にはモルタルのはがれは無いようだ
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古びた木製の庇
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もう、ヌコはいなくなっていた、と、思ったら名板の下で寝ていた
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仕方が無いので、海側を見に行く
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こんな所に小さな橋があった
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軍港めぐりで、船から良く見る方向だろう
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潜水艦は、日増しに白くなって行く
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D号倉庫
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当時のままの船着場
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C号倉庫
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B号倉庫
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海軍の消火栓のあった所に、コンテナハウスが!
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なんとか隙間に残っていた
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この手の止水栓は、この辺にはいっぱい残っている
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微妙に種類が違う
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後々にこの界隈は、海自施設に飲み込まれて、立ち入れなくなるとの話もある、見るなら今の内だ
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軍用引込線
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引込線を辿りながらこの場を去る
この後
堀の内 機銃砲台
曲矢遠隔観測所、矢の津弾薬庫残存遺構の探索に向った

曲矢遠隔観測所、矢の津弾薬庫残存遺構

曲矢遠隔観測所は、昭和50年代ぐらいまでは残っていたようだが、現在は解体され住宅地となった
自分もガキの頃1度だけ行った事があるが、写真は当然撮っていない
以前同期の櫻様から頂いた写真を数枚参考にさせてもらい、紹介して行く
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頂いた当時の写真、全体像は無いが花立観測所とは、形状が異なる
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以前紹介した陸軍柱は、曲矢遠隔観測所の物の様だ
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4本見つけた
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第4踏切を渡り、観測所に給電していた電柱を見に行く
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一本目はここから入る
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ここには壕があるが、流石に入れない
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傾いた電柱発見
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旧軍の物であり、傾いていても東電では勝手に処分できないそうだ(住民の苦情より)
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ここにも機銃陣地があったとの情報に基ずき、山狩りをするが収穫なし、平坦地が僅かしかないのだ
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古いコンクリート柱を発見するが(いっぱいある)道界と掘ってある、道など無いのに
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山を縦断し、桜ヶ丘まで出てしまった、地元の利で裏道から大津に戻る
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縦断コースと(1から2へは住宅があって直に行けない)番号が電柱位置
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2本目、奥の山に傾いた1本目が写っている
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浦と彫られたコンクリート柱、裏には何も書いてなかったが?
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古い井戸はそこら中にある
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3本目、線路際にある
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矢の津弾薬庫に行く、写真は同期の櫻様より、⑫⑬は当時の残存遺構今は無い、馬堀町2丁目一帯が弾薬庫
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A地点に境界柱があり、B地点の駐車場に御影石の柱が大量に置いてある
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馬堀海岸駅から裏道を歩いて来るとこれは見える
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金属が抜かれたのか、閂があったのか不明
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住宅の狭間の境界柱
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鎖でも付いていたのだろうか?
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位置関係
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上から見ると庭にも生えていた
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駐車場から覗くと、斜面にもう一本残っている
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B地点の駐車場へ
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やたらにいっぱいある
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くぼみは有るのだが、穴や文字の類は何も無い
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関連性の真偽は不明である
同期の櫻様から、矢の津弾薬庫の物で間違い無いとコメントをいただきました
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最早宅地化され、当時の遺構はこれ以上判別出切る物は見つからなかった

堀の内 機銃砲台  (完結編)

去年同期の櫻様より、写真を頂きザックリと表面の探索を行ったが、不十分な探索となっていた
よって本日きっちりとよじ昇って来た(かなりきつかった)
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右上の駐車場から京急の線路が見下ろせる所まで、稜線を縦断した
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今回登ったガケ(体感的にほぼ垂直)、下側に塞がれた壕口
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ガケの中腹にある殆んど埋った壕口に滑り込み、一安心する(外の風景で高さが判るだろうか?)
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T字の左側、ガレを投げ捨てた様だ
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少し広がった部屋が一つだけ
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右側は下っている、黄色いのは昭和のゴミ、電線のコイル巻きの芯
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大きな部屋が2つ、これは左側の入り口
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外から見えた塞がれた壕口(やはり人の出入りには小さい)
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外側
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入り口方向を振り返る
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右側の大部屋には、棚が彫ってある(あるいは生息室のベンチか?)
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左側の大部屋の前にはドラム缶が2つ
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わずかな段差がある
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台座の様な物と、箱状の金属片が崩れている
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左側の部屋奥
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陶器製プラグ(戦後のものだろう)
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隣に通路がある
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むっちゃキレイな彫り方
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インク瓶の蓋が落ちている
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連絡通路
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右の大部屋の棚
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棚の隣に縦1m、横30cm程度の掘り込みがある
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大部屋の奥を右に曲がると、地下壕に良くある衛所風の掘り込みがある
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これは天井に斜め方向に進んでいる通気孔の様な物
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電燈の跡があるが、戦後の物だろう
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最深部、外から見える塞がれた壕口2つ目(左壁に電線クリップがある)
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外観
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ここから電気を引いていたのだろう
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大部屋全景
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さて、また登るか!
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山頂到着、コンクリートの基礎の様な物が若干ある
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斜面に何か見える
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何も書いていないが、境界柱だろう
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塹壕跡がうっすらとだが、確認出来る
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ガケの際に半分落ちた窪地がある
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わからんだろうが、円形の窪地がある
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しばらく峯歩きをすると、人工的に掘り込まれた広い平坦地に出た
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付近には煉瓦が散乱している所がある
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もっとも高い所にある煉瓦と基準杭
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米ヶ浜中央公園(米ヶ浜演習砲台)の平和の塔が見えるが、木で海が見えない
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造成工事を放棄した所に出た
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ここからなら猿島が見える
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探し回ったが、過去に電車から見えていた壕口は跡形も無かった(これでは当たり前だが)
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砲座らしき場所に戻って来た、きちんと平らに掘削されている
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周辺を更に探すと、また人工的な窪地がある(最初のより大きい)
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付近の塹壕、(割りと見やすいと思う)そのまま下る
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棚になった部分に転がる陶器製のエルボ管
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陶器の甕から木が生えている
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良く見ると石垣がある
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石とゆうよりは、岩盤を積み上げたものだ
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井戸もある、施錠され、管理されているようだ、当時の水場だったのだろう
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雨どいなどに使われる陶器製の戸井
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石段も出てきた
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石垣も道もきれいになって来た
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斜面に何かある
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何だ、これは?
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六角柱は下の方にもあった(同期の櫻様より、津田沼→大津間(正確には山崎・堀之内)無線通信実験のアンテナの塔の基部であるとの情報を頂きました、ありがとうございました)
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コンクリート基礎もある
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なんだ、ちゃんと登れる所あったんじゃないか!まぁ、いつもの事だ・・・
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春日神社に出た(付近)
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カラフルなニワトリ
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さぁ、次に行こうか!

本日のコース
船越(変わり無し)-比与字F号倉庫周辺ー堀の内機銃陣地ー大津機銃陣地ー曲矢遠隔観測所ー矢の津弾薬庫
重砲兵学校、校長邸防空壕だが、今週中には亡くなってしまうだろう
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行政センター移転工事中
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ここまで来たら、コンクリートを流すだけ
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三つ目の壕口も発見された
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ついでに大津機銃陣地の銃眼を新たにもう一つ見つけた

「廃墟」根岸森林公園一等馬見所

根岸森林公園は根岸住宅地区の施設を挟んで馬場内エリアとスタンドエリアに分かれており、馬場内エリアには広大な芝生エリアをはじめ、日本中央競馬会の施設である馬の博物館がある。
敗戦後の1945年9月、他の軍事施設と同様にアメリカ軍により接収され、1947年からはアメリカ軍の管理下に置かれた。接収中、馬場内エリアは米軍専用のゴルフ場となっており、現在の芝生はその名残でもある。1969年にスタンド以外の接収が解除され、横浜市による整備の上、1977年10月に根岸森林公園として開放された。1982年にはスタンドも返還され、現在は一等馬見所が保存され、その裏手にはモーガンの設計図や竣工当時の写真パネルが展示されている。
現在はこの一等馬見所は、返還され横浜市の管轄になっているが、建物の耐震性に問題ありとして公開はされていない
それどころか、スタンド側は米軍基地、横及び背面は森林公園の利用者に常時監視されていて、とても入れない
2重の鉄柵と、監視カメラにより厳重に閉鎖されている。
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遥か遠くに異様を放つ建物が見える
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横浜にあるが、所属は横須賀基地
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米軍管理道路
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この先は治外法権となる
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米軍ゲートに廃墟が映える
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フェンスで何て書いてあるか、読めない
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英語は判らないので、先に進む
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スタンドエリアにやって来た
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特徴的な3つの塔(エレベーター)
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冬空に建物がいい感じ
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当時の一等馬見所
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スタンド側から
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図面
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一等観覧席貴賓室DSC03044_R_20140117222227f73.jpg
一等観覧席からコース東側を見る
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一等観覧席レストラン
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一等観覧席からコース西側を見る
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進撃の巨人を想像させる壁面
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この右側半面は、夏になると緑のツタで見えなくなる
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時計でも付いていたのか、丸い跡がある
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飾り窓横浜市により全て塞がれた
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巨人の顔
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全周囲に( ̄ー ̄)がある
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目の部分
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周囲には煉瓦風タイルを貼った外壁がある
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シャッターや扉は錆び付いて開かないか、施錠
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近くから見上げると圧倒される物がある
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場外馬券売り場の辺りの謎遺構
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当時のままの柵
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この辺だけは昔のまま
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米軍基地側、大屋根は危険防止に撤去されている
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白い所がエレベーター出入り口跡
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切り取られた大家根の鉄柱
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スタンドの朽ちたフェンス
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当時はどんな旗が憑いていたのだろう
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朽ちて折れた手摺り
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ぐるっと回って見たが、普通には入れそうな所は無かった
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手前は日本の密集住宅、奥は米軍の広大な庭付き住宅、3倍はゆうにある
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ここは未だに占領地
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数年後全面返還の合意は済んでいる、後は横浜市次第
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上部以外にもレリーフがある
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欠けてしまっている
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無事な物もあった、窓枠が少し違う
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庇の部分は殆んど崩壊している
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今は見かけない、青銅の雨樋
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鬼の様に高いフェンス
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監視カメラ付き
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外観だけでも見ごたえのある建物だ
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がっちりとガードされている警備所
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しかし、裏門は開けっ放しで誰もいない・・・いない
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ここは何処?
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うっかり迷ってしまった様だ
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フラッシュなど焚いてみる、まるで競馬場のようだ
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英語の落書きのある部屋
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味気無いが特徴のあるコンクリート柱
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フルオープンな窓枠、錆と緑のコントラスト
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昭和八年のパイプから下界にワープして帰る
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馬の博物館にある模型

英領マレー方面(に号券) 軍用手標

100年ほど前イギリスは、マレー半島に点在するいわゆる海峡植民地をもっていたが、そこでの通貨は「海峡ドル(Straits dollar)」を採用しました。それら地域はまだ国家ではなかったので、貿易決済の用途だけ満たせれば十分だった。
本来は英領なので、ポンドになるはずだったが、英国の没落によりそのまま使用
海峡ドルは1939年まで使用され、それ以後は「マラヤドル」を採用。
戦中は日本軍が発行した軍票と併用されていたようだ。
1963年にマレーシア連邦が結成され、1967年6月に通貨名を「マレーシアドル」に変更、現在にいたる
通貨単位は海峡ドル、補助通貨はセントを使用(頭記号:S・・・SLAVYAの略)
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に号:1セント(45mmX95mm)発行:昭和17年1月(枚数:20,110,000枚)
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に号:5セント(48mmX100mm)発行:昭和17年(枚数:82,540,000枚)
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に号:10セント(51mmX106mm)発行:昭和17年1月(枚数:99,860,000枚)
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に号:50セント(58mmX120mm)発行:昭和17年(枚数:50,900,000枚)
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に号:1ドル(67mmX140mm)発行:昭和17年(枚数:31,270,000枚)
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に号:5ドル(72mmX150mm)発行:昭和17年(枚数:13,270,000枚)
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に号:10ドル(77mmX160mm)発行:昭和17年(枚数:16,435,000枚)
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に号:100ドル(82mmX170mm)発行:昭和17年(枚数不明)
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明らかにインクの濃淡が違う物がある
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他に1000ドル、現地刷:100ドルもあるが、所有していない

ここまで大東亜戦争時の外地における日本の軍用手標を上げてきたが、これらは方面ごとに「いろはにほへと」で分類されている、い・ろに関しては潜水艦イ号呂号と混同されない様になど、諸説あるが自分は良く判らない
後にあげる日華時変における軍用手標は「甲乙丙丁戊」などで分類している。



英領オセアニア方面(と号券) 軍用手標

ガダルカナル島など太平洋島嶼部の占領地で使用されたが、現地では貨幣経済を必要としない部族社会であったため、実際に殆ど使用されなかったといわれている。
通貨単位はポンド、補助単位はシリングを使用
(頭記号:O・・・OCEANIAの略)
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と号:1/2シリング(58mmX120mm)発行:昭和17年(枚数: 9,600,000枚)
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と号:1シリング(67mmX140mm)発行:昭和17年(枚数:10,400,000枚)
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と号:1ポンド(77mmX160mm)発行:昭和17年(枚数:3,220,000枚)
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と号:10シリングも存在するが、所有していない

英領ビルマ方面(へ号券)  軍用手票

通貨単位はルピー、補助通貨単位はセントである
(頭記号:B・・・BURMAの略)
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へ号:1セント(45mmX95mm)発行:昭和17年(枚数:5,300,000枚)
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へ号:5セント(48mmX100mm)発行:昭和17年(枚数:25,000,000枚)
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へ号:10セント(51mmX106mm)発行:昭和17年(枚数:11,500,000枚)
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へ号:1/4ルピー(51mmX100mm)発行:昭和17年(枚数:48,700,000枚)
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へ号:1/2ルピー(58mmX120mm)発行:昭和17年(枚数:29,990,000枚)
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へ号:1ルピー(67mmX140mm)発行:昭和17年(枚数:28,250,000枚)
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へ号:5ルピー(72mmX150mm)発行:昭和17年(枚数:15,650,000枚)
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へ号:10ルピー(77mmX160mm)発行:昭和17年(枚数:13,410,000枚)
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へ号:100ルピー(82mmX170mm)発行:昭和17年(枚数:不明)
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ラングーン_R
ラングーンで道端に捨てられた日本の軍用手標、まさに紙くず以下の状態だ

米領フィリピン方面(ほ号券)  軍用手票

途中にスタンプが押してある軍用手標が出てくるが、これは軍票の賠償要求の為、民間団体が個人等の所有者に預り証を発行し、軍票にはスタンプを押して保管、日本に補償を求めた物で、前回書いた様に、賠償は実現していない。
なお、民間団体はいくつかあるので、スタンプも多種多様のようだ
通貨単位はペソ、補助通貨はペソの1/100のセンタボを使用
(頭記号:P・・・PHILIPPINEの略)
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ほ号:1センタボ(49mmX95mm)発行:昭和17年(枚数:1,160,000枚)
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ほ号:5センタボ(48mmX100mm)発行:昭和17年(枚数: 275,000枚)
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ほ号:10センタボ(51mmX106mm)発行:昭和17年(枚数:1,079,000枚)
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印刷所の違いか、印刷時期か判らないが、赤文字が分数書きもある
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ほ号:50センタボ(58mmX120mm)発行:昭和17年(枚数:235,000枚)
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ほ号:5ペソ(68mmX160mm)発行:昭和17年(枚数:7,092,000枚)
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印刷所(インク)の違いか、単純に劣化か?色違いが結構ある
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ほ号:10ペソ(68mmX160mm)発行:昭和17年(枚数:9,478,000枚)
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1ペソは所有していない

フィリピン方面.改造ほ号(別名リサール券)
南方開発金庫(なんぽうかいはつきんこ)、預かり金、地金の売買、通貨の交換、為替の売買を行う目的で1942年(昭和17年)に作られた特殊法人。出資金は総て政府支出のもので、総額1億円であった。
図柄に使用されている記念碑は、マニラ市内のルネタ公園にあるもの、この記念碑は、19世紀末にフィリピンの独立運動家として活躍した、ホセ・リサールを称えたものである。
発行はすべて昭和17年で、発行枚数は不明である
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改造ほ号:1ペソ(68mmX140mm)
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改造ほ号:5ペソ(68mmX160mm)
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スタンプはかなり雑で、完全には読めない物が大半、裏表も関係無い(手押しだから仕方が無いが)
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真ん中のXの位置が違う、登戸研究所(陸軍第九技術研究所)がらみだろうか?
通常裁断ミスのズレや、ナンバーのミス、インク違いは相当にあるがこれは原版が違うのだろう
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改造ほ号:10ペソ(68mmX168mm)
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ほ号:100ペソ(68mmX160mm)
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ほ号:500ペソ(68mmX160mm)
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現地刷:1000ペソ(63mmX132mm)
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改造ほ号は、大量に出回ったようで、実数が把握されていない、今でも古銭屋さんなどでは大量に安価で購入できる

軍用手標(軍票)等 まとめ

蘭領東インド方面(は号券) 軍用手標

軍用手票(ぐんようしゅひょう)とは、戦争時において占領地もしくは勢力下にて軍隊が現地からの物資調達及びその他の支払いのために発行される擬似紙幣である。
一般的に「軍票(ぐんぴょう)」と言われる物で、軍隊が通貨の代用として使用する手形であり、最終的には、その軍隊が所属する政府によって軍票所持者に対し債務支払いを行う必要があるが、敗戦国の場合、支払能力がないため反故にされる場合もある。
日本の場合は、連合国側が軍票の支払い義務を免除した為、基本的には紙くずと化している、しかし、一部の軍票は未だに有効で、海外トレーダーなどで数千~数万枚単位で使用されている。
このような手形を初めて発行したのは以外に古く、英仏戦争時のイギリスで1815年の事であった。
もともとは、自国の通貨を使用すると通貨供給量が激増し、結果的にはインフレーションで経済破綻する恐れがあるほか、敵国に自国通貨が渡ると工作資金になる危険性があるなど、戦略面からの要請がある為であるそうだ。
なお、日本においては、西南戦争の際に西郷隆盛が使用した西郷札が軍票の最初であるらしい

日清戦争軍票、日露戦争軍票、青島出兵軍票、シベリア出兵軍票、日華事変軍票、大東亜戦争軍票と日本は軍用手標を発行しているが、当然他国も様々な軍用手標を発行しているので、とても手に負えない
自分の手元にある大正~昭和20年(終戦)及び戦後の一部のみ、ほぼ画像のみ貼って行く形で紹介する

備考:通貨単位は現地と同じセント、グルデン、ルピアを使用
   (頭記号:S・・・SLAVYAの略)

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は号1セント(49mmX96mm) 発行:昭和17年1月(枚数:141,700,000枚)
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は号5セント(48mmX100mm)発行:昭和17年1月(枚数:142,020,000枚)
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は号10セント(51mmX106mm)発行:昭和17年1月(枚数:29,160,000枚)
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は号1/2グルデン(58mmX120mm)発行:昭和17年1月(枚数:18,290,000枚)
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は号1グルデン(67mmX140mm)発行:昭和17年1月(枚数:44,380,000枚)
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は号5グルデン(72mmX150mm)発行:昭和17年1月(枚数:14,710,000枚)
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は号10グルデン(77mmX160mm)発行:昭和17年1月(枚数:16,145,000枚)
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写真だと大きさが判らないので、手近かに有った7.62mmを対比様に置いて見た

他にも100ルピア、1000ルピアなどが流通していた様だが、所持していない
日本国内で印刷した軍用手標の他に、現地刷りの物も存在する(南方開発金庫券)
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現地刷:10ルピア(76mmX158mm)発行:昭和19年(枚数:不明)
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現地刷:100ルピア(85mmX175mm)発行:昭和19年(枚数:不明)
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他にも現地刷:1/2ルピア、1ルピア、5ルピアなどが存在するが、所有していない

見ずらいので軍用手標(軍票)等 まとめに順次UPして行く

知覧特攻平和会館

数年前に機会があり、僅かな時間であるが立ち寄ることが出来た
しかし、残念な事に館内撮影禁止との事で、僅かな写真しかない
知覧特攻平和会館のH.Pにて、うんちくは御確認下さい
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拾い物正面入り口
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慟哭、誓いの碑
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屋外の隼
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自衛隊寄贈の練習機だったと思う
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特攻銅像「とこしえに」
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入場料大人500円
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裏側
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パンフレットの平面図
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館内は撮影禁止(鹿児島県甑島の手打港の沖から引き上げた零戦)
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三角兵舎(レプリカ)
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裏側
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有名な子犬を抱く特攻隊員の写真
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自分は彼等の様に、笑えるだろうか?

僅か15分程度の立ち寄りだったが、いずれゆっくり見てみたい

大井海軍航空隊地下壕 (沢水加地区)

以前行った時は日没で、調査不能となってしまった大井海軍航空隊地下壕 沢水加地区に再調査に行った
今回は昔、名古屋大学の地震観測所に使われていた所から攻める事にした。
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さっそく斜面を下り始めると、すぐに地震観測所の階段が現れる
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放棄されてから、大分経っている様で、所々腐食して穴が空いていた
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現地到着
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既に稼動していないとはいえ、しっかりと閉じられている
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他の侵入口を探すと、あっさり見つける事が出来た
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多少狭いが、問題無く入壕する
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中に入ってしまえば、広いものだ
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天井の小森さん
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地震観測所の壁が見える
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奥にどんどん進む
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奥に進むに従い、壕内の不快指数(湿気)が上昇する
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突如巨大な芋虫が道を塞ぐ
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東雲みょん氏が、ここで作業をしたのだろうか?
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判りずらいが、ここで二股に分かれて奥に伸びている
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足元には当時の鎹が落ちていた
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取り合えず、まっすぐ進めないので迂回する
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レンズを拭いても、あっとゆう間に曇っていく
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大崩落
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気持ちが良い位に、天井が落ちている
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壁にはランプを引っ掛ける為か、釘が打って有る
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水没箇所に根っこが伸びていて、気持ち悪い(血管の様だ)
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天井の黒い所から、水が染み出している
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この先は崩落ではなく、埋め戻しの様だ
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金属性フックが埋め込まれている
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行き止まりなので、戻る
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残るルートはこれだけ!
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行ける所は行ってみよう
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抜けるとセントルは直角に曲がっていた、そっち方向には行けない
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この辺は地震観測所を掘る際に出たガレを突っ込んだのだろう
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最深部、ハクビシンがこっちを見ている、かわいそうなので撤収する
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湿度が酷く、最早撮影にならないので引き上げる
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入れ替わりに空母氏が入って来たが、途中で断念する
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壁に空いていた掘削機のドリル穴
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脱出する、司令部への方向には地震観測のセントルが伸びている為、これ以上調査不能
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付近には潰れた壕口と思われる箇所がいくつか有った
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バイパスの下まで来たので引き返す
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地震観測所の反対側を調べる、狭いが開口している、しかし位置的にセントルにぶつかって終わりだろう
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こちらは埋っている
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では、前回の穴へ斜面を移動する
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各自、装備を整える
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いざ、入水
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今日も元気に水没だ
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水は何処までもきれいに澄んでいる
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水没区をジャブジャブ進む
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既にメンバーは方々に散り、何処にいるか判らない
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気にせずどんどん行く
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壕は何処までも広い
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ここは通路は縦横にあるが、部屋らしい物は数少ない
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工事期の支保工
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2階に続く穴
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3つある湧き水の部屋
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開けっ放しの水道ぐらいの勢いで水は出ている
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珍しく大きな部屋
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水没区を出る
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他の壕口付近は殆んどこんな感じだ
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今回はオール手持ち撮影なので、ブレは簡便してほしい(長時間露光の手持ちはきつい)
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高さ1m程度のすきまを、徘徊する
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やっと広がった
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しかしすぐにガレが
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せまいDSC02511_R.jpg
セマイ
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狭い
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頭蓋骨
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何となく広がった、風が来る
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しかし、出られる広さではない
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隣の壕口は塞がっていた
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久しぶりにメンバーを見つけた
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ツルハシの穴、この壕にノミ跡は無い
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ランプ掛け
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湧き水
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湧き水動画
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思い思いに撮影する
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しかし、この壕は幅も方向も無秩序だ
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かなり適当に変化している、水が無ければ居住区になりそうだ
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そうゆう観点で見れば、そう見えてくる
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小森さん
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深い所でも股程度だ
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撮影に興じる空母氏
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2時間ぐらいで一回りした
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出るとしよう
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さぁ、帰ろう斜面を登って、まだ次が待っている(この後廃SLを見に行った

大井海軍航空隊地下壕

千代ヶ崎砲台、新遺構(再訪)旧住友工場護岸

数日前行って来た千代ヶ崎砲台、新遺構だが、見れなかった部分があったので再訪した
結果、収穫は無かったと言っていい、駐車場脇に上り口が見えていた部分が気になっていたが、登って行ったら千代ヶ崎旧砲台のフェンスに突き当たっただけだった。
また、逆方向に倉庫壕の先方向も探索したが、何も見つからなかった
よって、もう一度先の遺構をよく検証する事にした。
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壕床にあったコンクリートを少し掘ってみた
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埋もれているが、下に空間があった
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床面に基礎を打ち、固定されていた
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一番壕口側の管
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50cmほど、天井と共に落ちている
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2個目の管
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これは、天井面にキレイに整形されている
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3個目、例の落ちているやつ
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良く見ると塗料が着いている、当て板に使った板に着いていた物か?
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ポッキリ折れているが、何故ここだけこんなにも径が違うのだ?折れて当然だろう!
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4つ目の管、崩落の際にあり、前回見逃した、地上には管が4本有ったので気にはなっていた
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他の3本はこの様に天井岩盤とコンクリートが密着しているのに3本目は何故?
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上から覗く
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こんなに径が違うし、鉄筋も入っていない、何を考えているのだろう?
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海岸に出た
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何となくまともに見た事が無い護岸を見に行った
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この護岸は戦前からそのままだ
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崩壊はかなり進んでいる
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堤防に切れ間があり、ここから小型船で出入りしていたのだろう、階段がある
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住友工場の基礎が並んでいる
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いろんな煉瓦も落ちている
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明治期からの物かわ判らない
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時間の経過は、避けられない
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ここから護岸が石積みに変わる
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明治期のオリジナル部分なのだろう
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ヨットハーバーに憑いてしまったので引き返す
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引込線のレールが顔を見せている
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忘れさられた工具
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引きちぎられた様な鉄骨を眺めながら、帰途に就く
関連記事 川間ドック~久里浜住吉神社
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帰りがけに、重砲兵学校、校長邸防空壕が破壊されているとの情報を貰っていたので寄ってみる
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行政センターをここに移転させるそうだ
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きっと、伐採=コンクリート擁壁が成り立ってしまうのだろう
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ついでに大津周辺を山狩りしていたら
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ふむ、
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なるほど
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これは!
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誰も見つけられなかった、大津狙撃陣地を発見してしまったようだ、その内紹介するかも知れない

大井海軍航空隊、地上遺構

前回大井海軍航空隊地下壕 沢水加地区プレリサーチにおいて、地下壕のさわりの部分だけ見て来た
今回は地上に残る遺構と3つある地下壕の内の沢水加地区のみを探索した、今回も空母欲奈氏に案内してもらった
しかし、残念ながら年末とゆうことで、牧の原コミュニティセンターは休みだったので、屋外展示のみ見て来た
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残念ながら休館日
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以下、小さい画像は空母氏から借りた館内の物だ
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④機関科倉庫(現牧の原コミュニティセンター)
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屋外展示物
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引き上げられた白菊エンジン
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白菊(赤とんぼ)のエンジンについて
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外装はほとんど無いが原型を留めた貴重な物だ
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クランクシャフトも良く残っている
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白菊のタイヤ?と海軍魂注入棒とカンバン
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裏側
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表側
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黄色(オレンジもある)は試作や訓練機を示す色
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高圧制動車輪
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日本タイヤ株式会社(今のブリヂストン、戦時10年ほどこの名前に変更、ブリジストンと書くと怒られる、ジではない)
御存知、創業者の石橋正二郎にちなみ英語の「ブリッジ」(橋)と「ストーン」(石)をもじった社名である
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時鐘
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砲金とは、銅と錫の合金の一種で文字通り大砲の砲身の材料で耐磨耗性や耐腐食性に優れる、別名ガンメタル
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コミュニティセンターから東に向かうと電探講堂と言われている物がある(勿論間違いである位置的に)
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2枚目の古写真にもうっすら見える川の橋
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いくつか石柱が立っている
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裏は珍しい英文である
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見やすいのがあった、「境界標日本政府」米軍統治時代の物だ
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木製の懐かしい電柱、戦後の物だろう
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足元に落ちていた英文の石柱
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2枚目の古写真を見ると、地形的にも明らかに24(通信講堂)の上の小さな建物だ
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ズームすると、下地が出ている所がある、外観は戦後改修されたもの
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ここには号令台があった、宅地化で消えてしまった
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また、空母氏に借りる事にする
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茶畑のカットがそのまんま、位置を教えてくれる(ブロック部分は後世の物)
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裏側
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これは航空隊正門の左側門柱を加工した物だ
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左上のフックは隊旗を掲揚するのに使っていたそうだ
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御案内
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横から見ると後に伸びている
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裏側
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①大門付近のコンクリート基礎
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建物の基礎がある
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住民の方がこれ等(用水路も)は、昭和15年頃から飛行場建設の為に作った物だと教えてくれた(17年に開隊)
すでに茶畑があり、相当住民とのトラブルが摂取時にあったそうだ
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隊門の裏側に回ると、壁の続きがある(オリジナルの外壁)
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モルタルの剥がれから、あまり見掛けない煉瓦の形が見える
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近くで見ると結構いびつな積み方、明治砲台の様な美しさは無い
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煉瓦自体の縞模様がいびつに見せるのかも知れない
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似た様な高さに切り掻きがある、何か設置していたのだろうか?
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道路側から見る
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モルタルとの境目
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79号線沿いの退避壕を見に行く
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本来、地中に埋設だが、掘り返されている
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大井川の川石を使っているようだ
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入り口
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当時から蓋はあった様だ
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外観より中は綺麗だ
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すぐ近くにある司令部(作戦室)壕、ここに向けて三方向から壕を掘る計画だった
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ここでまた、日に負けているので空母氏の写真を借りる
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草に覆われた壕口
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内部は途中で司令部側からブロックで塞がれている(お茶の冷蔵保管庫になっていたそうだ)
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壁面には製造時にくり貫いた土がまだ残っている(土盛りの上にコンクリを塗り土を搔き出して造る天井製造法)
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司令部天井部と通気筒
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基礎は土と石を交互に積み上げた貧弱な物に見える
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当日は寒く、ツララが下がっていた
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天井に登ってみる
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通気筒の他に、金具が付いたコンクリート塊があった
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この廃屋と司令部入り口が合体していて中に入れない
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牧の原北地区を歩くと⑬酒保のあたり
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再利用されていたが、基礎は当時の物だろう
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すぐ脇にも基礎の上にブロック塀を積んでいる所がある
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全体を写すと結構広い範囲になる
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⑮烹炊室の一部だろうか?
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明らかに当時の縁の下の通気孔
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⑭風呂のあたり
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上物は一度別に建てられた様で、材質が違う(基礎は古いもの)
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近くには古い排水設備がある、風呂は合っているのだろう
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駐車場の外壁
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上から見ると変わった形をしている、当時物だろう

一通り見たので、地下壕に向う

千代ヶ崎砲台、新遺構?

本日メンバーと千代ヶ崎砲台を訪れた、周辺探索の中、新たな壕口が見つかった
この地区は多数の施設、部隊が入り混じっており、正確には何処に所属する壕かは不明である。
付近には海軍対潜学校、海軍工作学校川間ドック浦賀狙撃用洞窟陣地千代ヶ崎新砲塔砲台千代ヶ崎旧砲台、などが隣接しているが、この壕の真上には千代ヶ崎旧砲台(明治砲台)があるので、仮に「千代ヶ崎砲台、新遺構?」とする
今日、見つけたばかりと言う事もあり、用途も判らない謎遺構だ、普段なら倉庫壕で済ませてしまうのだが
今回は明らかに変だ、こんな形は見た事が無い、さらなる調査が必要な物件であるがわからんだろう。
しかし、今日1月2日に「今から行くよ」で、午後には集まってしまううちのメンバーって・・・
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最近は50cm開いていれば、広いと感じる様になって来た
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この壕口は外から木の根を突っ込んで塞いである
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ほとんど埋っているが、4~5箇所壕口がある
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奥の方に何かぼーと立っている
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木のハシラ?  壕の中に?
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なんと、コンクリートの柱で折れた所から、内部は中空構造と見える
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内壁にはブリキの様な、薄い金属が貼り付けてある、通常この手は煙管である
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天井より上に伸びている
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隙間から見上げると、開口しているではないか、このパイプは必要無いのでは?
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人物比、榴弾砲氏
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上が気になるので、一旦這い出る
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斜面を駆け上がると、あった
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波板を貼り付けていた跡が、はっきり残っている
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数m先に、折れていない物があった
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枯れ木を落してみると、下にいるメンバーから苦情があったので止める
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このすぐ下に竪穴がある
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井戸状に2mほど掘られている、蛸壺にしてはおかしい
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もう一つ管があった
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内部
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中央の管の前にも穴がある
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これは危険だ、3mほど掘って、壕内に貫通している(隣の竪穴は貫通していない、内部より確認)
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4つの管の中2つに竪穴があるようだ、内部に戻る
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壁に有る、物入れ空間
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竪穴はでかい、メンバーが上から見下ろしている
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足元に、ガレキに埋もれた台座があった
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折れてない管を下から見上げる
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次の斜面を捜索する
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メンバーが次の壕を発見する
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湿気があるがさっきより造りが良い
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正面は突き当たり
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右には廃車バイクが
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往年の名車、スーパーカブ
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奥に壕は続く
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多少の崩落はあるが、全体的には形はいい
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部屋1
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部屋2
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部屋3
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床に奇妙な文様が現れる
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部屋4
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右手も土砂流入で閉塞
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戻りしな、部屋3で
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榴弾砲氏が弁当箱を発見
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見掛けない弁当箱メーカーだ
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壕を出る
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近くにもう一つ穴があったが、3mほどの部屋があるだけだった
捜索は夕暮れまで続き、20:00解散となる

追記
壕内の柱は上にあった煙管が老朽化で途中で折れて、落下した物であった。
竪穴は更に排煙目的で開けられた可能性もある、壕口付近には水道局の石柱が有り地下発電所としての条件を満たしている、終戦間際に付近施設に対する電力確保の為に製作中、終戦を迎えたものと推測する。