fc2ブログ

大谷石採掘場跡(中島飛行機地下軍需工場)冬季再訪その3

今回は去年、tonotama氏が見つけた穴を見に行く。
雪深い山中に分け入って行く謎の集団は、かなり怪しいだろう
DSC02602_R_201402271845010c0.jpg
見つけた時には、雪など無かったそうだ
DSC02603_R_20140227184502f8e.jpg
現地到着、開口部が2つある
DSC02604_R_201402271845047f5.jpg
手前の方から進入する、内部で繋がっている
DSC02606_R_2014022718531764c.jpg
入り口の斜面に謎のスライムが多数!
DSC02607_R_2014022718531854b.jpg
上から落ちて来た水滴が、流れる暇も無い内に凍り憑いた物(空母氏の車の温度計はー4℃だったそうだ)
DSC02609_R_201402271853208a4.jpg
入り口内部も霜柱だらけだった
DSC02608_R_20140227185319211.jpg
早速進入する
DSC02610_R_201402271901155de.jpg
扉があったと思われる物がある
DSC02611_R_20140227190116342.jpg
それをくぐると、一気に広くなる
DSC02612_R_20140227190117624.jpg
右側にはもう一つの壕口との連絡通路がある
DSC02613_R_2014022719011959a.jpg
排水溝が切られ、かなり良く出来た壕である事が伺える
DSC02614_R_201402271901207f3.jpg
右回りに回る事にする
DSC02617_R_20140227190839b96.jpg
かなり排水に気を使っているようで、ここまでしっかりした物は素掘りでは見かけない
DSC02618_R_20140227190840983.jpg
規模がそれなりにあるので、電気碍子もかなりある
DSC02619_R_201402271908413ca.jpg
この辺は戦後のキノコ業者の遺構である
DSC02620_R_201402271908434f2.jpg
この地方は古来からキノコの産地で松茸も採れたので、地名にも由来している
DSC02600_R_20140227191817a40.jpg
説明板
DSC02621_R_201402271908441e2.jpg
もう一つの壕口
DSC02626_R_20140227192254a26.jpg
主坑道8本を横抗が若干ズレながら貫いている感じだ
DSC02630_R_201402271922552a9.jpg
これより通常モードで撮影して見た
DSC02631_R.jpg
たまにはいいだろう、こんなのも
DSC02634_R_20140227192258f3a.jpg
水没区の先に、反対側の開口部が見えている
DSC02635_R_20140227193646327.jpg
隣の壕は、排水が生きていて水は抜けている
DSC02636_R.jpg
真ん中辺はこんなでも、出口付近がしっかりしていれば、だいたい抜ける
DSC02637_R.jpg
やけに排水溝の角がしっかりしていると思ったら、大谷石を角に埋め込んである
DSC02638_R_201402271936506f0.jpg
どおりでこの壕の床は、道路の様にしっかりしていると思った
DSC02640_R_20140227193651ef8.jpg
反対側は住宅地に開口しているので、引き返す
DSC02641_R_20140227194923d92.jpg
人物比、怪しい集団
DSC02642_R_2014022719492427c.jpg
中央の横抗は、この様に多少ずれながらも貫通している
DSC02644_R_20140227194925128.jpg
開口部は思ったより多い
DSC02645_R_20140227194927816.jpg
キノコ時代のトタン板
DSC02646_R_20140227194929981.jpg
主坑道は8本ともこんな形で開口部になっていたが半数以上は塞がっている
DSC02647_R_201402271957364eb.jpg
基準杭が落ちている
DSC02649_R_20140227195738df3.jpg
出入り口近くの抗道
DSC02648_R_20140227195738d4c.jpg
その手前にぶら下がる電燈、低すぎるだろう!
DSC02650_R_20140227195740946.jpg
出口は脱出不能
DSC02651_R.jpg
排水溝には蓋がしてあるが、大谷石かは不明
DSC02652_R_20140227202057746.jpg
中央の横抗
DSC02653_R.jpg
軽トラの轍が有る、キノコ時代のものだろう
DSC02654_R_201402272020597a2.jpg
ふと、足元を見ると
DSC02655_R_20140227202101710.jpg
ウマの蹄鉄と思われる物が落ちている、馬も栽培していたのだろうか?
DSC02656_R_20140227202802652.jpg
中央付近のやたらに広いホール状の空間
DSC02661_R_20140227202804784.jpg
その先の横抗
DSC02662_R_20140227202805152.jpg
2段掘りのような跡がある
DSC02663_R.jpg
壕の角部分
DSC02664_R_20140227202808650.jpg
そうとう外部から土砂が流入している
DSC02667_R.jpg
主坑道はメイン部分だけで50mはあるだろう
DSC02668_R_20140227203339580.jpg
非常に平らく整地されている
DSC02669_R.jpg
また、蹄鉄(ていてつ)が落ちている
DSC02672_R.jpg
この辺は水が多い
DSC02673_R.jpg
横抗の手前には排水溝に石を被せて橋にしている
DSC02675_R_20140227203917970.jpg
タイヤの跡がくっきり残る
DSC02677_R_20140227203919a56.jpg
こんなペグは、あちこちに纏まって落ちている
DSC02679_R.jpg
めちゃくちゃ真っ平な床面
DSC02686_R_20140227204527a67.jpg
キノコの必需品、温度計
DSC02689_R_20140227204528952.jpg
スイッチ、ブレイカーか?
DSC02690_R_201402272045298f7.jpg
横抗の際奥は、更に拡張の途中で終わったようで、T字に掘りかけだった
DSC02697_R_20140227205346d56.jpg
出口付近の湾曲した通路
DSC02698_R_2014022720534740a.jpg
大谷石が積み上げてある
DSC02699_R_20140227205348e07.jpg
拡張中なのか、段差がある
DSC02700_R_20140227205349367.jpg
掘削途中の様だ、一周したので外に出る
DSC02708_R_201402272058089db.jpg
一足先に出て、単独で周辺調査を深雪に埋まりながら行う
DSC02707_R_20140227205807fb3.jpg
怪しげな窪み発見!
DSC02705_R_201402272058069ab.jpg
新たな壕を発見した
DSC02704_R_201402272058055ee.jpg
完全にさっきの壕とは違う物件だ、こんな曲がった通路は無かった、メンバーを連れに戻る
DSC02703_R_20140227205803578.jpg
入るにはこの傾斜を降りるしか無いのだが、日陰でガチンガチンに凍り付いていて、滑り落ちてしまう
自力で這い登る事は不可能なので、無理せずに次回ザイルとアイゼン装備でリトライする事にする。
DSC02709_R_20140227210823f74.jpg
ふもとにあった鉄塔を夢中に撮影するとのさんを置いて、撤収する。

ふもとの村人の話によると、旧軍の火薬庫であったとの情報だった、また、この付近に猟銃の弾薬保管庫が有り24時間警備体制が有り、サミットがあった時は警官が警備に来ていたとの事だが、栃木でサミット?

動画貼るの忘れていた
大谷石採掘場跡(中島飛行機地下軍需工場)冬季再訪その2
スポンサーサイト



大谷石採掘場跡(中島飛行機地下軍需工場)冬季再訪その2

前回は季節が変わっただけで、ほぼダブリの内容だった、今回からが本番となる。
DSC02551_R_20140225200112fe9.jpg
前回も見たが、空母氏が見てないので一応よって見たこちら側の壕
DSC03160_R_20140225200114759.jpg
今回まともにこっちの方は写真を撮っていない、動画で済ませるつもりだった
DSC03159_R_201402252001144b6.jpg
しかし、確認したら空母氏の( ̄ー ̄)が写っていたので去年の写真でごまかす
DSC03165_R_20140225200118fe3.jpg
去年有ったこの円卓会議の椅子は無くなっていた
DSC03164_R_20140225200116be3.jpg
去年埋っていた部分が、崩落で見えるようになったのだろうか、壕口を発見した!
DSC02557_R_201402252027114c2.jpg
取り合えず潜り込む
DSC02558_R_20140225202712842.jpg
左側を見ると、長い通路が続いている
DSC02575_R_201402252027132f2.jpg
右側は、今回の装備では水没区には入れないが、閉塞しているように見える
DSC02577_R_20140225202714d64.jpg
壁面には3連碍子が並んでいる
DSC02571_R_20140225203606131.jpg
横抗を掘ろうとした途中の様な感じの所に、変な穴がある
DSC02572_R_2014022520360864d.jpg
おそらく、掘っている途中で自然窟に当たったのだろう、試掘の可能性もある
DSC02573_R_20140225203609c62.jpg
天井に残る支保工
DSC02574_R_201402252046504c1.jpg
左の通路はキノコ利用されたようで、床にはビニールと苗床が敷き詰められていた
DSC02559_R_20140225204644362.jpg
ドンと広がる大空間!
DSC02560_R_20140225204646064.jpg
右側も20mほど拡張されている
DSC02561_R_20140225204647300.jpg
問題は左側の切り立った傾斜だ
DSC02563_R_20140225204648668.jpg
上を見上げると、天井まで貫通している
DSC02562_R_20140225212604594.jpg
切り替えるとこんな感じ
DSC02584_R_201402252149595a0.jpg
壕床に差し込む光
DSC02564_R_20140225212605d9d.jpg
最深部は埋め戻しになっていた、トラックが出入り出来るサイズの壕口
DSC02565_R_20140225212606e8b.jpg
壕内スナックでもあったのだろうか?
DSC02566_R_20140225212608674.jpg
これだけの空間があれば、四式戦が組み立てられる
DSC02568_R_20140225214203abb.jpg
もっとも戦後のキノコ時代のゴミも多い
DSC02567_R_20140225214202365.jpg
子供も遊んでいたのだろうか?
DSC02569_R_20140225214204c36.jpg
端っこの方は、ゴミだらけだ
DSC02578_R_20140225214206642.jpg
犬?の置物
DSC02579_R_20140225214208ede.jpg
懐かしいダイヤル式のチャンネルテレビ
DSC02580_R_2014022521495744a.jpg
これも懐かしい実用車
DSC02570_R_20140225214955a10.jpg
入り口に戻ろうとした時
DSC02582_R_2014022521495857b.jpg
見た事も無い電球を見つけた、きのこ型だ!
DSC02585_R_201402252150001f4.jpg
折角なので、漬けて見たが光らなかった
DSC02596_R_20140225220014158.jpg
壕から這い出し、上に登って見た
DSC02597_R_20140225220016ffc.jpg
下ではとのさんが一服している
DSC02587_R_20140225220012e68.jpg
下を見ると結構崩れている様にも見える
DSC02588_R_20140225220013b41.jpg
それなりに絶景
DSC02589_R.jpg
上面部の穴に到着、左の先が気になるが、たっぷりと水が溜まっている
DSC02590_R_20140225220641dc8.jpg
苦心して渡るが、何も無かった
DSC02592_R_20140225220642246.jpg
隙間から、絶壁を望む
DSC02594_R_201402252206449f8.jpg
振り返り、入り口も見る
DSC02595_R_20140225220645547.jpg
さぁ、戻るのも大変だ

大谷石採掘場跡(中島飛行機地下軍需工場)冬季再訪その1
次回、更なる地下工場へ進入する

大谷石採掘場跡(中島飛行機地下軍需工場)冬季再訪その1

去年の夏以来行っていなかった、宇都宮の戦跡と呼んでいいのか微妙な大谷石採掘場跡(中島飛行機地下軍需工場)に行って来た。
前回夏場に行って、藪だらけでとても探索出来ない所が多かったのだ、しかし、今回は別の問題が発生した。
雪だ!先週、先々週つ続いた雪のせいで足元が見えない、大谷は穴だらけなので、藪もそうだが見えないのはまずい
なるべく危険なことは避けて、安全第一がもっとうなので、部分的に今回も宿題を残す探索になってしまった。
今回は静岡県からのゲスト、廃墟日常記録帳の管理人空母欲奈氏も参加しての探索となった。
P1020855_R.jpg
深夜の23時頃の東京は年度末道路工事の為、断続的な渋滞が起きていた
P1020858_R.jpg
東北道羽生にて一服する、寒い深夜はホットコーヒーだ!
P1020859_R.jpg
大谷到着
P1020860_R.jpg
前回同様、道の駅ろまんちっく村にて就寝
P1020863_R.jpg
のんびりと8時に行動開始
P1020862_R.jpg
空母欲奈氏と合流を果たす(片道500km)
DSC02461_R_20140223213803671.jpg
現地到着
DSC02462_R_20140223213804eb1.jpg
大谷景観公園にて用を足す
DSC02465_R_20140223213805d2e.jpg
横浜では見る事の困難な天然のツララが下がっている
DSC02466_R_20140223213806e59.jpg
栃木の雪をなめていました
DSC02470_R_2014022321443654f.jpg
まずは、空母氏御希望の(OKN氏も初)穴を紹介する
DSC02473_R_201402232144372ff.jpg
やっと雪の無い所を歩ける
DSC02474_R_20140223214438101.jpg
何故か今回も自分以外は真ん中の石段を使う
DSC02475_R_2014022321444065a.jpg
3本も階段があるのに、何故だろう?いい感じにしなって面白いのだが・・・
DSC02476_R_201402232200253a3.jpg
以前も紹介したので、さらっと行く
DSC02480_R_20140223220026835.jpg
アクセスがいいので、紹介後多数訪れている様で、物が移動している
DSC02481_R_20140223220028069.jpg
特徴的なホール部分
DSC02483_R_20140223220029a38.jpg
軍需工場独特な作り方(採石場跡を拡張した物と思われる)
DSC02487_R_2014022322072286f.jpg
メイン坑道
DSC02488_R_20140223220723047.jpg
やはりここは気になる
DSC02491_R_201402232207245bb.jpg
下はともかく、上はどうなっていたのだろう?
DSC02489_R_20140223221130d88.jpg
観光用公開壕だった頃の電気配線(ある意味観光廃墟?)
DSC02490_R_201402232211311f7.jpg
最深部は開口部
DSC02502_R_20140223221132c00.jpg
この交差点の二方の壕には、コンクリートで塞いだ跡がある
DSC02503_R_20140223221134a8b.jpg
かなり大きな壕だと判るだろうか
DSC02506_R_20140223221942aaf.jpg
あと付けの大谷石の扉
DSC02479_R_20140223221940529.jpg
ここに来ると
DSC02512_R_20140223221944b88.jpg
水面の反射で遊ぶ
DSC02513_R_20140223221945732.jpg
角度によって、反射が違って面白い
DSC02511_R_2014022322194241f.jpg
さぁ、出口に向う
DSC02518_R_20140223222435110.jpg
こうゆう写真を撮る時
DSC02519_R_201402232224364ff.jpg
手法によって、色々撮れる
DSC02520_R_201402232224373b1.jpg
自分は基本記録写真なので、最初のを優先して記事にする
DSC02522_R_2014022322243928e.jpg
さぁ、出るとしよう
DSC02523_R_201402232224408e6.jpg
帰りは右の階段を使ったが無理のようだった
DSC02525_R_201402232234064fd.jpg
二階に向う
DSC02527_R_20140223223408a6f.jpg
心使い
DSC02528_R.jpg
相変わらず見事な彫り方だ(観光用)
DSC02530_R_2014022322341092c.jpg
見上げると、落ちた天井からツララが・・・
DSC02531_R.jpg
関東では中々見れない
DSC02536_R_2014022322394397d.jpg
いたる所にツララが下がっている
DSC02534_R_201402232239424b5.jpg
2階は明るい
DSC02538_R_2014022322394489c.jpg
開口部が多いせいだ
DSC02544_R_20140223223947f6f.jpg
おかげで写真写りも良い
DSC02542_R_20140223223946dcc.jpg
夏と違った景色も良い
DSC03236_R_201402232246576ae.jpg
夏の同アングル
DSC02546_R_201402232247001bd.jpg
厳しい寒さにより、水溜りは氷憑いていた
DSC02549_R_2014022322470294f.jpg
先端より振り返る
DSC02552_R_20140223225512d78.jpg
誰がこんな置き方したんだろう
DSC02554_R_20140223225513fa2.jpg
落ちた天井から出てみる
DSC02550_R_20140223225511a46.jpg
さぁ、降りるとしようか!

次回新壕発見

陸軍第一航空軍司令部壕

友人サイト「廃墟を旅する」にて、紹介されたのがきっかけで、数年前に行って来た。
第1航空軍は、大日本帝国陸軍の航空軍の一つで、本土防空の任についた組織である。
通称号は燕、軍隊符号は1FA。
本土決戦を目前にした昭和20年、本土に展開する航空部隊を一元的に統一指揮を行う航空総軍が新設され、本土にあった第一(東京)、第六航空軍(福岡)その他の部隊を傘下とした最初で最後の巨大な航空部隊となりましたが、実質的な戦闘部隊は一部で、その殆どが特攻隊であった。
ちなみに、第二~第五は台湾、フィリピンなどの外地にある。
本拠地東京の第一航空軍の司令部がなぜ埼玉の奥地にいるかは資料を発見できなかったが、先人が明言しているので
それに習う事にする。
DSC08451_R_2014022120300880e.jpg
道路からさほど入らずに壕が掘られている
DSC08452_R_20140221203010bc4.jpg
ちょっと覗くと、無数の触覚が! さらに覗き込むと・・・
DSCF1036_R.jpg
思わず帰りたくなった、天井を埋め尽くす巨大なカマドウマの大群がそこにいた、直径4cmは有にあるだろう、しかもスゴイ肉厚、シーフードカレーの海老ぐらいある、あれに足と触覚を着け想像して欲しい(しない方がいいかも)
DSC08453_R_201402212039390af.jpg
周りには多数の壕口があるので、マシそうな所を探す
DSC08454_R_20140221203940d4b.jpg
基本的には閉鎖されていて、隙間は少ない
DSC08457_R.jpg
カマドウマ駆除しながら突入する(こいつら跳ねるから始末に悪い)
DSC08458_R.jpg
壕内は水の溜まった所が多く、湿気もかなりある
DSC08459_R_20140221212618372.jpg
岩盤の崩落などは殆んど無かったが、脇にこんもり砂が貯まっている
DSC08460_R_2014022121262086d.jpg
全体的には四角く天井が形成されている
DSC08461_R_20140221212621a6e.jpg
右方向は途中なのか、部屋なのか判らないが面取りはしてある
DSC08462_R_20140221213955976.jpg
ぱっと見左側は突き当たりに見えたが、斜面が登れる様だ、今は直線を行く
DSC08463_R_2014022121395651d.jpg
連絡通路は狭まり、荒くなってくる
DSC08464_R_201402212139579fa.jpg
右側にはまた、部屋状の空間
DSC08465_R_2014022121395949b.jpg
突き当たり
DSC08466_R_201402212140000e1.jpg
直線通路を戻る
DSC08467_R_20140221215144f6a.jpg
奥の方の斜面は湿気が多い
DSC08468_R_20140221215146b58.jpg
大分風化しているが、階段がある
DSC08469_R_20140221215147f62.jpg
下を見下ろす、設計ミスか?かなりの段差がある
DSC08470_R_20140221215149a8a.jpg
登ってみると、閉鎖された壕口がある
DSC08471_R_20140221215151550.jpg
支保工を打った鎹が落ちている
DSC08472_R_20140221215937b80.jpg
大き目の十字路
DSC08473_R_201402212159381f9.jpg
違う形の鎹が落ちている
DSC08474_R_20140221215940a0b.jpg
また、下り斜面がある
DSC08475_R.jpg
主坑道は上下段で2本、ほぼ同じ大きさ
DSC08476_R.jpg
埋った壕口
DSC08478_R_20140221220518aee.jpg
坑木
DSC08479_R.jpg
確かにしっかりした造りではあるが
DSC08480_R_20140221220520166.jpg
岩盤も壕内は固く堅牢な様だ(入り口辺と質が違う)
DSC08481_R_20140221220521b9a.jpg
しっかりしている分面白みが今ひとつ湧かない
DSC08482_R_20140221220523400.jpg
ほぼ、一緒に見える
DSC08487_R.jpg
基準杭が落ちている、天井からチーフを垂らし、水平を見るもの
DSC08483_R_20140221221315f15.jpg
迂闊に見上げると、天井を埋め尽くすカマドウマ(大型)の団体さん(グロ注意)
DSC08488_R_201402212213171b8.jpg
一通り見たので、脱出する

この本壕の他にも、倉庫壕、交通壕などがあるが、谷一つ隣だった様で発見していない

浅野カーリット

埼玉県川越市にある、とある川原に大量の遺物がある。
俗に言う「四式陶器製手榴弾」である、この名称は自衛隊資料の中には見られるが、戦時資料の中には無い。
昭和20年の「相模海軍工廠科学実験部」の資料の中に爆薬火工兵器の欄に、投射弾・墳進弾の項目に「手榴弾四型」なる物がある。
また、他項目内に小型地雷の名があり、これは陸軍の三式地雷(陶器製)の事である。

本土決戦用に各種陸戦兵器を用意する必要性がある中、金属の不足がネックとなった、たまたまその時に大倉陶園から
片手サイズの陶器製花瓶を兵器転用出来ないかとの、申し入れがあり、相模海軍工廠で開発が進められた。
しかし、陶器製手榴弾は硫黄島でも一部使用されたとの記述があるので、20年2月には試作以上の開発はされていたはずである。

当初、完成はしたものの兵器としては、威力不足とメーカーでは判断されていたが、あっさり軍部により実地試験の後、採用が決定する。
戦車などには全く論外であるが、対人兵器としてはこれで十分との判断が下された、背景として時間的余裕が無い事と、自決用としては十分であったそうだ。

使用方法は、頭のゴムキャップを外し、マッチの要領で着火するだけで、ピンなどは無い。
P1020832.jpg
手榴弾四型復元図
P1020840.jpg
米軍資料
P1020833.jpg
ゴム製信管体
P1020834_20140219223353c6d.jpg
何故か横にならない
P1020835_20140219223354702.jpg
一般に陸軍は縦型、海軍は丸型の様だ
8709776_m_R.jpg
三式地雷(陶器製)
heiki_R.jpg
サイズいろいろ
heiki1_R.jpg
右は教練用
P1020836.jpg
九九式型教練用陶器製手榴弾
P1020853.jpg
実物(空洞でなく陶器の塊)
P1020854.jpg
ピン部分、抜いても爆発しなかった(折れてしまったけど)
P1020837.jpg
機械式製法
P1020838.jpg
型押し手製
P1020839.jpg
瀬戸物の本体は各種の有名窯元が参加していた(自発的にらしい)
DSC05394_R_201402192249422a6.jpg
現地、農業用の堰があり、普段は川底が見えなくなっている
DSC05395_R.jpg
川原に降りると
DSC05396_R_201402192249444b3.jpg
ものすごい風景となる
DSC05398_R.jpg
三式地雷(陶器製)
DSC05401_R_20140219224948310.jpg
手榴弾四型
DSC05402_R_20140219225439922.jpg
DSC05403_R_20140219225441f05.jpg
DSC05404_R_201402192254423c1.jpg
これ全部手榴弾
DSC05407_R_20140219225643f22.jpg
上の方は割れているので、少し掘ると出てくる
DSC05409_R_20140219225645bcf.jpg
DSC05410_R_20140219225646b2b.jpg
出てくる出てくる
DSC05414_R_201402192256484f8.jpg
注意しないと破片で怪我をする
DSC05418_R_201402192259572ea.jpg
水が冷たいので、それなりに根性と根気が必要だ
DSC05420_R_201402192259584b8.jpg
完品を探すのはむずかしい
P1010060.jpg
地雷も信楽焼(下は統制番号)
P1020844.jpg
瀬戸焼(白)
P1020842.jpg
瀬戸焼(黒)
P1020845.jpg
信楽焼(艶なし)
P1020851.jpg
信楽焼(艶あり)
P1020852.jpg
有田焼(色なし)
P1020850.jpg
有田焼(色あり)
P1010302.jpg
信楽焼刻印(有田焼や、瀬戸焼は刻印が無い)
P1020848.jpg
P1020849.jpg
産地不明、似ていても窯印は別物

同じ信楽焼でも統制番号の違う物あり、大きさも異なる物あり
底部が丸い物がほとんどだが、一部平らに加工され、立つ物がある(元は花瓶だし)
携帯時は本体の首の所に紐を巻き、腰などにぶらさげるそうだ

浅野カーリットの跡地は、民間に売却され宅地、畑、学校などになっているので場所は記さない。
カーリットとは爆薬と訳せる様だが、浅野カーリットは陶器製本体に火薬の充填、信管などの加工取り付けを行う工場で、終戦により不必要になった陶器本体を処分せよとの命により投棄された物が、川の浸食により露出したもの
本来は全て破壊する事になっていたが、難を逃れた物が少数存在する。
当然カラの陶器のみのはずだが、間違って製品が投棄されている可能性もゼロではないだろう
ここを訪れ、事故、怪我をしても一切自己責任である!

「船舶」凌風丸 (気象庁 海洋気象観測船・3代目)

凌風丸(りょうふうまる)は気象庁海洋情報研究センターが管理する海洋気象観測船である。
2014年現在稼動しているものは3代目にあたる。
初代凌風丸は1937年(昭和12年)に建造され、日本初の本格的な気象観測船として中央気象台に配備された。
太平洋戦争を生き抜き、戦後も中央気象台および後身の気象庁で運用された。

主任務として、主に海洋の大規模で長期的な変動を監視するため、海底の地形、海洋の表面から深層に至るまでの水温や塩分、海流などの海洋観測を行うとともに、海水中の重金属や化学物質、油分のほか、二酸化炭素やメタンなど地球温暖化の原因とされる温室効果ガス、オゾン層を破壊するフロンなどの洋上および海水中の濃度を観測している。
余談だが、映画 「252 生存者あり」にも協力している。
DSC02356_R_20140216194036fb1.jpg
横浜港での見学会
DSC02357_R.jpg
各種アンテナ類がそれらしい様相だ
DSC02358_R_20140216194038545.jpg
錨の横のマークは船首構造を現す、バルバスバウ・球状艦首(戦艦大和で有名)でバウスラスターを備える表記)
DSC02359_R.jpg
グレー以外の船に乗る機会はあまり無い
DSC02362_R_2014021619404260d.jpg
「航海速力」とあるが、これは船が実際に貨物を積んで航海するときの最高速力で、波浪や船底の汚れなどによる速力の低下を考えて余裕をみた定格馬力の85~90%を機関出力とし、積み荷状態は、貨物船では満載状態、客船では4分の3または2分の1載貨の状態で算出される。
俗にゆう「最大速力」はいつでも出せるものではなく、積荷、燃料、乗客などの負荷を削り、最良の燃料を使用し機関(エンジン)をフルパワーで回転させて計測するもので、完成後の公試ぐらいしか実際は出せる状況が無い。
他にも細かくは、「経済速力」、「定期速力」、「平均速力」などの船の速力の種類はある。
DSC02363_R_20140216201357b0e.jpg
乗船を開始する
DSC02365_R_20140216201359a48.jpg
まずはブリッジへ行く
DSC02366_R.jpg
観測船なので、横方向にもいろんな機器、操作パネルが向いている
DSC02367_R.jpg
海図台、護衛艦の倍ぐらいブリッジは広い
DSC02369_R_20140216204259b6a.jpg
オート・チャート・プロッター(海図に自船の位置を赤ポイントしつづけるシステム)
DSC02368_R_201402162014037f4.jpg
各種モニター
DSC02370_R_20140216204301c54.jpg
いたる所に機器がある
DSC02373_R_20140216204303436.jpg
レーダーモニター
DSC02371_R_20140216204302fb2.jpg
ジャイロコンパス(羅針盤)
DSC02375_R.jpg
航行時と別に、観測時の微妙な移動が可能
DSC02376_R_20140216210246cfe.jpg
航路図ディスプレイ
DSC02378_R_20140216210247151.jpg
操舵室制御盤
DSC02379_R_201402162102485f8.jpg
無線通信機
DSC02381_R_20140216221920800.jpg
ブリッジから船内へ
DSC02380_R_20140216221919bea.jpg
ある程度の船には必ず神棚がある
DSC02382_R.jpg
測器調整室
DSC02383_R_20140216221923b38.jpg
気象衛星受画装置
DSC02384_R.jpg
ずらりと並んだ、観測機器
DSC02385_R_20140216222814693.jpg
カップラーメン、シーフードが多い
DSC02386_R_201402162228152f4.jpg
判りにくいが、半分ほどの大きさに水圧でちじんでいる
DSC02387_R_20140216222816436.jpg
各種ボンベ類
DSC02388_R_2014021622281846b.jpg
甲板に出る
DSC02389_R_2014021622281938f.jpg
海水の採水ケース
DSC02390_R.jpg
上のドームもレーダーの一種
DSC02391_R_2014021622345956f.jpg
自動放球装置(観測気球)
DSC02392_R.jpg
プランクトン採取などに使う大型クレーン
DSC02393_R_20140216223501c79.jpg
船はおしりだ
DSC02394_R.jpg
甲板上はいたる所に観測機材が積んである
DSC02395_R_20140216224359807.jpg
普段外洋にいるので、見れる機会は少ない
DSC02396_R.jpg
変わった船は面白い

真、重砲兵学校校長邸防空壕(ヒギンズ邸)その2

真、重砲兵学校校長邸防空壕(ヒギンズ邸)その1のつづき
DSC02914_R_20140214215344c23.jpg
早速2階へ登る
DSC02915_R_201402142153455a9.jpg
ヒギンズ邸時代にコンクリート補強されたのだろう階段は直角に曲がる
DSC02916_R.jpg
2階への入り口
DSC02919_R.jpg
足元には当時付いていた扉の一部か木材が落ちている
DSC02920_R_20140214215349a1b.jpg
下を振り向く
DSC02921_R_20140214220715613.jpg
登って左側、長い通路がある、これぞ陣地的な感じだ
DSC02922_R_20140214220716bdc.jpg
だが、断る!もとい右に行く
DSC02924_R_20140214220717a50.jpg
埋め戻し的に壕床が埋っている
DSC02925_R_20140214220719043.jpg
やばいくらいに狭くなって来た
DSC02926_R_201402142207207c4.jpg
抜けた!
DSC02927_R_201402142215256d9.jpg
道が二股になった、取り合えず左に行く
DSC02929_R_20140214221526bf3.jpg
なんと、コンクリート製の砲室だ!
DSC02933_R.jpg
下部分が削られ、ヒギンズ時代に出入り口にしていたのだろう
DSC02935_R_2014021422153015e.jpg
そうとうしっかりした造りをしている、壊すのも大変だったろう
DSC02930_R_201402142215278dd.jpg
砲室の観測窓
DSC02971_R_20140214222553af1.jpg
外から見たこの部分だ
DSC02936_R_20140214222551d7f.jpg
砲室の天井の穴
DSC02937_R_20140214222552546.jpg
コンクリートには鉄筋が入っている
DSC02938_R_20140214223253ff2.jpg
分岐を右側に行く
DSC02942_R_201402142232544bd.jpg
封鎖されている、微かに車の音がする
DSC02145_R_201402142236080e9.jpg
外から見るとここである
DSC02944_R_2014021422325540d.jpg
人一人がやっとの隙間を戻って行く、実はここに入れない隙間が更にあったが埋っていて行けない
DSC02945_R_20140214224111467.jpg
階段に戻って来た
DSC02946_R_2014021422411206b.jpg
通路を進むと床にコンクリートが埋っている
DSC02947_R_20140214224113f30.jpg
穴が開いている
DSC02948_R_20140214224114bc1.jpg
覗き込むと、赤い造花が見える
DSC02970_R_2014021422411703e.jpg
1階のプチ庭園のこれだ
DSC02950_R_20140214224800bfa.jpg
コンクリートの隔壁がある
DSC02953_R_20140214224801b47.jpg
くぐると床に穴が開いている、煉瓦だ!
DSC02890_R_20140214225156bcb.jpg
1階のこれがそうだ
DSC02954_R.jpg
2階通路は当然煤だらけ(朽ちた鉄パイプがある)
DSC02149_R_201402142349534d1.jpg
山腹の道にある鉄管の穴、恐らくこれだろう
DSC02956_R_20140214224804531.jpg
こんな感じ
DSC02957_R.jpg
通路は低くなりつつ、奥につづく
DSC02958_R_2014021423003814b.jpg
途中までは行ったが、これ以上は進めなかった
DSC02959_R_2014021423004031c.jpg
引き返す
DSC02960_R_20140214230041778.jpg
通路のど真ん中に開いてて落ちたらどうするってぐらい危険だ(約40cmの穴)
DSC02962_R_201402142300423d5.jpg
2階の探索終了
DSC02964_R_201402142300436f8.jpg
下へ降りていく
DSC02909_R_20140214230934fde.jpg
左のプチ庭園
DSC02965_R_20140214230935e1c.jpg
上を見ると、さっきは気が付かなかったが穴が開いている
DSC02878_R_20140214230933eef.jpg
主出入り口
DSC02871_R_201402142309324d0.jpg
出れたじゃん、洞口着弾観測所(ピラム壕)より楽勝!
DSC02864_R.jpg
全体写真
DSC02866_R_20140214231821f59.jpg
左手の上に
DSC02865_R_20140214231820847.jpg
気になるコンクルート塊があるがこの日はスルー
DSC03258_R_20140214232525fe2.jpg
後日再訪するも、かなりやばい状態に
DSC03255_R_20140214232524ca3.jpg
斜面のかなりやばい位置にあるのだが、迷っている場合では無い
DSC02973_R_20140214231823400.jpg
行ける所まで行って、斜面を横ばいして進む
DSC03259_R_20140214232526721.jpg
あと少し!
DSC03262_R_20140214232527933.jpg
埋没しているが、立派な銃眼であった、きっと砲室の先の行けなかった隙間にあったのだろう

これは2014年1月後半の調査である、今頃はコンクリートの壁の中に永遠に埋ってしまっただろう
また一つ遺構が消えた・・・
DSC02151_R_20140214234955dc7.jpg
残っているのはこれぐらいだろう

真、重砲兵学校校長邸防空壕(ヒギンズ邸)その1

重砲兵学校、校長邸防空壕で紹介した、ヒギンズ邸裏側の壕口は、ずっと探していた大津機銃陣地そのものだった。
内部構造は2層式、大型と中型の2つの銃眼を持っていた。
戦前、戦中と重砲兵学校の校長邸として使用され、戦後はウオーレンス・ヒギンズ中佐が横須賀米軍基地司令官ベニー・デッカー大佐の右腕として海軍司令部に配属され宿舎としてこの邸宅を使用する事となる。
実はこの二人は海軍士官学校の同期で友人であった、ヒギンズ氏は卒業後民間のスタンダード石油などに勤務していたが、日米開戦のおり海軍に志願、プリンストン軍政学校で訓練を受ける、戦後広島の軍政部に赴任、この時日本人女性と結婚(本国に家庭あり、つまり重婚)している。
46年8月にベッカー大佐の下へ引き抜かれる、この人物は親日派でヒギンズ氏共々戦後復興に貢献した人として有名であるが、一方でベッカー大佐のワイフは白人至上主義者で、恐妻であった。
その事が災いし、日本人と結婚したヒギンズ氏は50年代に総司令部を辞任している。
辞任後もしばらくは大津に住み続け、後に厚木などに転居する事になる。
ヒギンズ氏は保険会社(キャピタル保険)の重役をしていたが、他にも友人との会社共同運営や横須賀ロータリークラブ会長(外国人初)などと色々な事をしていた。
なお、三笠復興にベッカー大佐が尽力した事にはなっているが、実はヒギンズ氏による功績が殆んどであったらしい、この辺も辞任の原因の一つかも知れない、彼はこういい残している「彼は(ベッカー)は悪くない、彼の妻が・・・・」。
息子のヴィクター・ヒギンズ氏の話しの中に、面白いものがあった、「裏山に旧日本軍の壕があって、2階に上ると機関銃が置いてあったのを見た」とゆうような文面を市史研究「横須賀」第7号の中から見つけた。
終戦後直ちに摂取され、陣地内の武装解除が成されないまま、引き渡された物と思われる。
この壕はヒギンズ氏によって、来客用のバーに改造されているとの話だ
P1020803.jpg
大津駅前の広大な土地がヒギンズ邸
P1020805.jpg
当時の庭師付き日本庭園
DSC02133_R_20140212213447867.jpg
山を背にした、似た位置からのアングル
DSC02132_R_20140212220603f86.jpg
壕口その1
DSC02137_R_20140212220605ebf.jpg
壕口のの2
DSC02145_R_20140212220608b80.jpg
壕口その3
DSC02872_R_2014021222083291e.jpg
未見だった壕口その4、わずかな隙間が有る
DSC02875_R_20140212222250bfe.jpg
四角い通路
DSC02876_R_20140212222252327.jpg
突き当たりに掘ってある謎のくぼみ、貫通していれば銃眼になって入り口を守備出切る
DSC02877_R.jpg
その下には一部コンクリートが引かれている
DSC02881_R_2014021222225600f.jpg
左にクランクして小部屋になっている
DSC02882_R_201402122230209a7.jpg
足元には戦後と思われる碍子が散乱している
DSC02883_R.jpg
コンクリートの薄い階段
DSC02884_R_2014021222302371a.jpg
これがバーカウンターの棚のようだ
DSC02886_R_20140212223026133.jpg
右を見ると何か見える
DSC02890_R_201402122230288b8.jpg
なんと、暖炉だ(しかもグリルつき)
DSC02895_R_2014021222384831e.jpg
煙突は密着していない(わざとか?)
DSC02896_R_201402122238491c2.jpg
グリルと思われる部分
DSC02897_R.jpg
暖炉には上から岩盤が崩れ落ちて来ていた
DSC02898_R_201402122238533e3.jpg
ここもキノコ栽培に使ったのか、埃避けにビニールを貼っていたのか不明
DSC02899_R_20140212223855ada.jpg
左にある小部屋、収納庫か?
DSC02902_R_201402122248358b0.jpg
奥にある、埋った開口部
DSC02903_R_2014021222483757d.jpg
金属製の灯楼みたいな物
DSC02904_R_201402122248380d1.jpg
この壕には古い消火器が多い、壕内で火を焚いていたせいだろうか・
DSC02905_R_20140212224840f33.jpg
先は無かった
DSC02906_R_20140212230337e09.jpg
暖炉の部屋に引き返す
DSC02907_R_201402122303382d6.jpg
暖炉前にチェスの駒が散乱している
DSC02908_R_201402122303402af.jpg
チップもある
DSC02909_R_2014021223034179e.jpg
フロア全体、右正面がバーカウンター
DSC02910_R_201402122303436ad.jpg
パーティーでもやってたのか、造花や飾も散乱する
DSC02911_R_20140212231126d47.jpg
バーカウンターのテーブルはコンクリートを引いてたようだ
DSC02912_R_20140212231128a16.jpg
碍子が逆さまに一つ
DSC02913_R_201402122311310d5.jpg
天井には碍子がまだ残っている
DSC02909_R_2014021223034179e.jpg
この写真の左側、溶岩石でプチ庭園が作ってある
DSC02969_R_201402122318106e9.jpg
水道ホース、1mほどの位置から貯まった水を滝状に下に流す仕掛け
DSC02970_R_201402122318125ed.jpg
水底だった所にはいろんな物が落ちている
DSC02914_R_20140212231133203.jpg
奥に噂通り、2階へ続く階段が!

時間が無いのでまた次回!

参考記事
陸軍重砲兵学校 その1
陸軍重砲兵学校 その2
この学校の校長の官舎時代の防空壕で、後に大津機銃陣地となる

米軍軍票、朝鮮銀行

連合国の共通軍票であるAMC(Allied forces Military Currency)軍票の1種で、B円は、1945年から1958年9月まで、米軍占領下の沖縄県や鹿児島県奄美群島(トカラ列島含む)で、通貨として流通したアメリカ軍発行の軍票。
1948年から1958年までは、唯一の法定通貨だった。日本国内で法定通貨とされた唯一の外国軍票であり、本土地域でも短期間少量流通している。
正式名はB型軍票。英語表記は、Type "B" Military Yenで、Yen B type、B-yenなどとも表記される。
当然Bが有ればAもある、当時アメリカによってA円も製造されたが、こちらは日本領だった朝鮮半島南半分を占領したアメリカ軍が使用した物で、日本向けではない。
朝鮮では終戦まで日本円と等価の朝鮮銀行券が流通していた、戦後朝鮮銀行は、韓国銀行に変わって行く。
朝鮮銀行は、1911年に設立された日本の特殊銀行の一つであった。
P1020319.jpg
P1020320.jpg
B券10銭
P1020321.jpg
P1020322.jpg
B券50銭
P1020323.jpg
P1020324.jpg
B券1円
P1020325.jpg
P1020326.jpg
B券5円
P1020327.jpg
P1020328.jpg
B券20円
P1020329.jpg
この他に10円、100円、1000円がある
P1020539.jpg
P1020540.jpg
朝鮮銀行券1円(大日本帝国政府内閣印刷製造)
P1020541.jpg
P1020542.jpg
朝鮮銀行券10円(大日本帝国政府内閣印刷製造)
P1020543.jpg
P1020544.jpg
朝鮮銀行券100円(大日本帝国内閣印刷製造)
P1020545.jpg
P1020546.jpg
朝鮮銀行券100円(朝鮮書籍印刷株式会社製造)

前回で終わるはずだったが忘れてたので、紹介する

貨幣

明治期は、銅貨・銀貨が主流で、先に話が出た様に銀の金属としての価値が硬貨の額面価値を越えてしまい
銀貨が無くなり、銅との合金やアルミ、ニッケルなどの新たな材質、もしくは紙幣に変わって行く
対外決済に必要な銀や、軍需資材を確保するために、それまで発行されていた物では支障をきたす背景もある。

明治期
P1020339.jpg
P1020340.jpg
貿易銀
P1020880.jpg
P1020882.jpg
1厘銅貨(6~17年)
P1020827.jpg
P1020828.jpg
面白いのはここ、二百枚換一圓と説明がある(200枚で1円と交換)
P1020829.jpg
半銭銅貨(6~21年)
P1020819.jpg
竜1銭銅貨(6~21年)
P1020820.jpg
以百枚換一圓(100枚で1円と交換)
P1020821.jpg
P1020822.jpg
2銭銅貨(6~17年)
P1020823.jpg
五十枚換一圓(50枚で1円と交換)
P1020817.jpg
P1020818.jpg
菊5銭白銅貨(22~30年)

大正期
P1020830.jpg
P1020831.jpg
5厘青銅貨(5~8年)
P1020814.jpg
P1020815.jpg
稲1銭青銅貨(明治31年~大正4年)
P1020687.jpg
P1020688.jpg
桐1銭青銅貨(大正5年~昭和13年)
P1020690.jpg
P1020691.jpg
小型5銭白銅貨(大正9年までは大型5銭白銅貨)
P1020692.jpg
P1020693.jpg
10銭白銅貨(大正6年までは旭日10銭銀貨)
P1020341.jpg
P1020342.jpg

昭和期
P1020825.jpg
P1020826.jpg
カラス1銭黄銅貨(13年)
P1020813_20140302191431300.jpg
5銭ニッケル貨(8~12年)
P1020816.jpg
10銭ニッケル貨(8~12年)
P1020343.jpg
カラス1銭(13年~15年)
P1020344.jpg
富士1銭(16年~18年)
P1020345.jpg
1銭錫貨(19年~20年)
P1020346.jpg
5銭アルミ貨(15年~18年)
P1020347.jpg
P1020348.jpg
穴5銭錫貨(19年)
P1020349.jpg
鳩5銭錫貨(20年~21年)
P1020812.jpg
10銭アルミ銅貨(13~15年)
P1020350.jpg
菊10銭アルミ貨(15年~18年)
P1020351.jpg
10銭錫貨(19年)
P1020352.jpg
稲10銭アルミ貨(20年~21年)
P1020807.jpg
50銭大型(21~22年)
P1020354.jpg
P1020355.jpg
50銭小型(22年~23年)
P1020353.jpg
1円黄銅貨(23年~25年)
P1020810.jpg
5円穴無し(23~24年)
 
自分の手持ちの軍用手標、紙幣、硬貨、債券などを紹介してきたが、自分は収集家ではなく、適当に集まってきた物を紹介しているに過ぎないので、細かい所は信憑性皆無である、現在でも使用可能の物もあるので、当ブログ記事によって損益があったとしても、一切関知しない。

もちろん、掲載品は個人所有品のみなので、この他にも倍以上の紙幣、硬貨等が存在する
豆知識:現行の1円玉は2011年 - 2013年:電子マネーの普及等により需要が減少したため、ミントセット向けを除き製造を休止、多分気が付いてる人は少ない。

P1020795.jpg
今日は朝から20年に一度と言われる雪模様の中出かける、0700では大した事無い
P1020796.jpg
雪に霞むベイブリッジ
P1020797.jpg
午後には湾岸付近も10cmほど積もってきた
P1020799.jpg
首都高も閉鎖
P1020798.jpg
道は空いていて良かったのだが、今日はどうにもならない、ポンチョと靴を濡らしただけで新しい発見は無かった

A号日銀券

A号日銀券は、終戦後の新旧円切り替えを行うための新券で、連合軍の占領下で発行された紙幣である。
製造に当たっては、図案、券種、版式など全てについて連合軍総司令部(GHQ)の事前承認を必要とした。

極度の原材料不足と短期間に大量製造を行う事となったため民間の製紙・印刷会社を大蔵省の管理工場に指定し、印刷局から管理官を常駐させて、この緊急製造に対処した(紙幣の組番号により、印刷会社・工場が特定できるようになっている)
この、A号券は、量産一途に製造されたため用紙、印刷とも粗製であり新旧券の交換が一段落すると、改造計画が進められた。

このB号券は、A号券が当面のインフレを乗り切るための暫定的役割を負い、
銀行券本来の技術水準から見ると極めて不本意なもであったことから、恒久券
として発行された。

昭和28年12月から連合軍総司令部(GHQ)の事前承認が必要無くなり、B号日銀券が発行された。
B号紙幣の特徴として、右側に肖像、左側および中央に額面金額を配した統一的デザインを採用し、B50円券を除き縦寸法を統一している。
B100円券以上の高額券の用紙には、「みつまた」だけを使用し、定位置のすき入れ(スカシ)を入れている。

B号券に関しては、持っているが近年まで流通していた紙幣なので、念の為掲載しない。
P1020485.jpg
P1020486.jpg
A号・5銭券 (48mmX94mm)製造年月:s23.5~s23.6(製造枚数 : 60,000,000枚)
P1020487.jpg
P1020488.jpg
A号 ・10銭 券(52mmX100mm)製造年月:s22.8~s24.12(製造枚数 : 580,000,000枚)
P1020489.jpg
P1020490.jpg
政府紙幣 ・50銭 (60mmX108mm)製造年月:s22.9~s24. (製造枚数 : 1,400,000,000枚)
50銭券は製造を急ぐため、日銀券ではなく、日本政府紙幣で発行された。
P1020491.jpg
P1020492.jpg
A号 ・1円券 (68mmX124mm)製造年月:s21.3~s32.3(製造枚数 : 6,278,185,080枚)
P1020493.jpg
P1020494.jpg
A号 ・5円 券(68mmX132mm)製造年月:s21.3~s21.12(製造枚数 : 460,000,000枚)
P1020495.jpg
P1020496.jpg
A号 ・10円券 (76mmX140mm)製造年月:s21.2~s29.3(製造枚数 : 9,869,055,000枚)
P1020497.jpg
P1020498.jpg
A号 ・100円券 (93mmX162mm)製造年月:s21.2~s24.12(製造枚数 : 6,493,632,000枚)
   

小額政府紙幣、不兌紙幣い号ろ号

昭和12年(1937年)に、日中戦争が始まると、それまで発行されていた、小型50銭銀貨の発行中止することとし、翌13年小額政府紙幣(富士桜50 銭)が発行された。

昭和17年になると、富士桜50銭に変る、新しい小額政府紙幣(靖国50銭)が発行された。
これは靖国神社を描いた、戦時色の強い紙幣であった。

これらの、小額紙幣には今となっては珍しい、製造年が記されている。
ただし、富士桜50銭は昭和13年~17年まで製造されているが、すべて13年銘となっている。

小額政府紙幣
P1020467.jpg
P1020468.jpg
政府紙幣・50銭券・富士(65mmX105mm)製造年月:s13~s17(製造枚数 : 1,633,000,200枚)
P1020469.jpg
P1020470.jpg
政府紙幣・50銭券・靖国(65mmX105mm)製造年月:s17~ (製造枚数・17~19年計: 1,060,000,000枚)
P1020471.jpg
政府紙幣・50銭券・靖国、桃色 (65mmX105mm)製造年月:s20~s22(製造枚数 :891,600,000枚)
P1020472.jpg
色が桃色になり、国名を 大日本帝国から日本帝国に変更している
不兌紙幣
昭和16年(1941年)12月太平洋戦争が始まり、戦争が激化の一途をたどるなか、主として紙幣製造の簡素化を目的に、相次いで改札(変更)が行われた。
また補助貨幣を補うため小額の5銭券、10銭券も発行された。
P1020473.jpg
P1020474.jpg
い号・5銭 券(48mmX100mm)製造年月:s19.10~s21.5(製造枚数 :641,400,000枚)
P1020475.jpg
P1020476.jpg
い号・10銭 券(51mmX106mm)製造年月:s19.10~s21.3(製造枚数 :994,530,000枚)
P1020477.jpg
P1020478.jpg
い号・1円 券(前期)(70mmX122mm)製造年月:s18.12~ (製造枚数 : 30,000,000枚)P1020479.jpg
P1020480.jpg
兌換い号・5円 券(2次)(76mmX132mm)製造年月:s16.4~s18.8(製造枚数 : 86,154,000枚)
P1020481.jpg
P1020482.jpg
い号・10円 券(2次・前期)(81mmX142mm)製造年月:s18.4~  (製造枚数 :362,700,000枚)

P1020483.jpg
P1020484.jpg
ろ号・5円 券(4次)(76mmX132mm)製造年月:s18.8~  (製造枚数 :84,600,000枚)
日本銀行券に変更

日華事変軍票  丙 、丁、戊(ぼ)号券

丙号券(華南地区用)
丙号券は、日本銀行券の主模様部分に軍票としての必要な文字を印刷
3段階の変化を1円券で紹介
P1020458_20140205213729406.jpg
元になった日本銀行兌換銀券
P1020499_20140205213731525.jpg
乙号券
P1020509.jpg
丙号券
P1020510.jpg
丙号:1円(85mmX145mm)発行:昭和13年9月(枚数:22,600,000枚:乙号含む)
P1020507.jpg
P1020508.jpg
丙号:5円(76mmX132mm)発行:昭和13年9月(枚数:19,038,000枚:乙号含む)
P1020511.jpg
P1020512.jpg
丙号:10円(82mmX142mm)発行:昭和13年9月(枚数:1,536,000枚:乙号含む)
P1020513.jpg
P1020514.jpg
丙号:100円(93mmX162mm)発行:昭和19年(枚数:20,354,000枚:乙号含む)
P1020515.jpg
P1020516.jpg
丙号(異式):100円(93mmX162mm)発行:昭和19年(枚数:不明)

丁号券 (華中地区用)
丁号券は、軍票の使用地(中国)にふさわしい図案としたもので、やっとオリジナルになった
P1020517.jpg
P1020518.jpg
丁号:1銭(45mmX95mm)発行:昭和14年3月(枚数:149,000,000枚:戊号含む)
P1020519.jpg
P1020520.jpg
丁号:5銭(51mmX107mm)発行:昭和14年3月(枚数:57,400,000枚:戊号含む)
P1020635.jpg
P1020636.jpg
丁号:10銭(51mmX107mm)発行:昭和13年8月(枚数:122,700,000枚:戊号含む)
P1020521.jpg
P1020522.jpg
丁号:50銭(58mmX120mm)発行:昭和13年8月(枚数:69,400,000枚:戊号含む)
P1020523.jpg
P1020524.jpg
丁号:5円(72mmX150mm)発行:昭和14年5月(枚数:1,520,000枚:戊号含む)
P1020525.jpg
P1020526.jpg
丁号:10円(77mmX160mm)発行:昭和14年5月(枚数:24,421,000枚:戊号含む)
丁号:1円は所有していない

戊号券(華中地区用)
戊号券は、丁号券の大日本帝国政府軍用手票を大日本帝国政府に変更
P1020527.jpg
P1020528.jpg
戊号:1銭(45mmX95mm)発行:昭和14年9月(枚数:149,000,000枚:丁号含む)
P1020529.jpg
P1020530.jpg
戊号:5銭(48mmX100mm)発行:昭和14年9月(枚数:57,400,000枚:丁号含む)
P1020531.jpg
P1020532.jpg
戊号:10銭(51mmX106mm)発行:昭和14年9月(枚数:122,700,000枚:丁号含む)
P1020533.jpg
P1020534.jpg
戊号:50銭(58mmX120mm)発行:昭和14年9月(枚数:69,400,000枚:丁号含む)
P1020644.jpg
P1020645.jpg
戊号:1円(67mmX140mm)発行:昭和14年9月(枚数:27,400,000枚:丁号含む)
P1020535.jpg
P1020536.jpg
戊号:5円(72mmX150mm)発行:昭和14年9月(枚数:1,520,000枚:丁号含む)
P1020537.jpg
P1020538.jpg
戊号:10円(77mmX160mm)発行:昭和14年9月(枚数:24,421,000枚:丁号含む)
丁号、戊号ともに2厘5毛、100円があるようだが持っていない

ろ号券 (仏印地区用)に至っては見たことも無い
ほとんど戊号券と同一で、番号の横に(ろ)の文字が入るようだ

日華事変軍票  甲 、 乙号券

昭和6年(1931年)の満州事変を契機として、日本の軍部は独走しはじめ、治安の維持を口実に大陸への派兵と侵略を進め、昭和12年7月ついに、日華事変が勃発し全面戦争状態に入った。
日華事変関係の軍票(正式には、「昭和12年軍用手票」という)は、昭和12年から終戦の昭和20年までの、約8年間に、甲号、乙号、丙号、丁号、戊号及びろ号と多種多様な券種が発行された。

甲号券
(甲号券は、日清戦争軍票以来の様式を踏襲)
P1020637.jpg
P1020638.jpg
甲号:10銭(119mmX72mm)発行:昭和12年10月(枚数:30,000,000枚)
甲号券は残存数が少なく、1枚数万円はざらで取引されている、自分はこれ一枚のみ

乙号券
(乙号券は、日本銀行の信用を利用して、これの一部を抹消、加刷)

P1020499.jpg
乙号:1円(85mmX145mm)発行:昭和13年8月(枚数:22,600,000枚:丙号含む)
P1020458_20140203205537635.jpg
元になった日本銀行兌換銀券
P1020500.jpg
裏面
P1020501.jpg
乙号:5円(76mmX32mm)発行:昭和13年8月(枚数:19,038,000枚:丙号含む)
P1020461_20140203205538532.jpg
元になった日本銀行兌換銀券
P1020502.jpg
裏面
P1020503.jpg
乙号:10円(82mmX142mm)発行:昭和13年8月(枚数:1,536,000枚:丙号含む)
P1020465_20140203205540342.jpg
元になった日本銀行兌換銀券
P1020504.jpg
裏面
P1020505.jpg
乙号:100円(93mmX162mm)発行:昭和19年9月(枚数:20,354,000枚:丙号含む)
P1020506.jpg
裏面

大正小額政府紙幣、兌換券

大正3年(1914年)に始まった、第1次世界大戦により、日本の経済は未曾有の好景気となり、補助(小額)貨幣の需要は、年々激増して行った。

大正6年に入ると、補助貨幣の不足が心配されたため、増産を図ろうとするも製造能力には限界があり、 応急措置として同年10月、50銭、20銭、
10銭の、3種の「小額政府紙幣」を発行することとなった。
金属(銀など)の価値が上がり貨幣が発行できなくなって来たのだ。

大正小額政府紙幣
P1020451.jpg
(政府紙幣・10銭券・6年: 54mmX86mm)
P1020452.jpg
大正六年~11年?毎年年号が入る
P1020456.jpg複製禁止と書いてある
P1020670.jpg
P1020671.jpg
(政府紙幣・20銭券・6年: 58mmX92mm)
P1020453.jpg
P1020454.jpg
P1020455.jpg
複製禁止の書き方が違う

兌換券
第1次世界大戦の勃発により、主要国は一斉に金輸出や金兌換を禁止した。
日本も、大正6年(1917年)に金輸出を禁止(金兌換は継続)し、金兌換は事実上停止された。
大戦終結後、各国は順次金本位制に戻ったが、日本は戦後の反動不況、関東大震災、金融恐慌と続いたことから復帰は遅れ、昭和5年(1930年)になって金輸出の禁止を解くこととなった。
この頃、実勢為替レートは下がっていたにも係わらず、無理をして旧平価で金本位制に戻ったことから、デフレ不況におちいり、すでに始まっていた
世界恐慌の中で限界に達し、昭和6年12月金輸出は禁止され、金兌換も停止された。

金本位制とは、一国の貨幣価値(交換価値)を金に裏付けられた形で金額で表すものであり、商品の価格も金の価値を標準として表示される。この場合、その国の通貨は一定量の金の重さで表すことができ、これを法定金平価という。
P1020458.jpg
P1020459.jpg
(改造・1円券: 85mmX145mm)製造年月:t5~s17.7(製造枚数 : 264,000,000枚)
P1020461.jpg
P1020462.jpg
(兌換丁号・5円 券(1次):76mmX132mm)製造年月:s4.6~s16.1(製造枚数 : 305,600,000枚)
P1020465.jpg
P1020466.jpg
(兌換丙号・10円 券(1次):81mmX142mm)製造年月:s3.10~s18.4(製造枚数 :1,061,070,000枚)

他にも兌換乙号・10 券、兌換甲号・20円 券、兌換乙号・20円 券、兌換甲号・100円 券、兌換乙号・100円 券、兌換乙号・200円 券などがあるが、所有していない。
兌換乙号・200円 券は、昭和初期の金融恐慌時に、銀行救済のためたった2日で急遽製造されたもので、裏面印刷のない常識外の紙幣であった。
流通高も1億6千万円程度と言われ、恐慌の平静化とともに急速に市場から引き揚げられた。