終戦記念日である本日、当ブログでも井上成美(しげよし)記念館は何処に?等、毎日検索されている
本物件を再度訪問し、取り上げる事にした。
井上成美はいわゆる条約派に属し、米内光政、山本五十六らと共に日独伊三国軍事同盟、日米開戦に強硬に反対した。
最後の海軍大将として知られたが、戦後はほとんど人前に出ずに生涯を終えた。
この地で子供たちに英語塾を開き、僅かな授業料と軍人恩給で貧困の生活を送り、元部下からの支援を頑なに拒み通したそうだ。
旧幕臣・井上嘉矩の十一男として出生。「成美」という名は「論語」顔淵篇の一節 「子曰く、君子は人の美を成す、人の悪を成さず、小人はこれに反す」に由来し、父からそんな人間になるようにと何度も教えられた成美はこの名を誇りとした。
無遠慮な点があり、海軍部内には井上を良く言わない者が多く、同期生にも井上を嫌う者が少なくなかった、戦後の海軍首脳の「反省会」でも、先輩の及川古志郎を徹底的にやり込めた事は有名である。
一方、イタリア駐在武官から帰国した井上は、先妻である喜久代の肺結核が悪化して看護が必要であるため、海軍人事当局に「海上勤務では家庭が破滅するから、しばらくは陸上の閑職に置いてほしい」旨を願い出て許可されている人間臭い唯一のエピソード(失礼)もある。
また、戦艦「比叡」艦長時代、井上は、翌朝まで帰艦しない予定で上陸した、従兵長の下士官が、その隙に艦長室のベッドで熟睡してしまった、予定を切り上げて帰艦した井上がこれを見つけたが、誰にも言わなかった、懲罰を受けずに済んだ従兵長は井上の恩情を長く徳とした。
しかし、海軍軍人としては面白い体質で、本人曰く「小さなフネなら酔わないのに、フネが大きくなるほど酔いやすかった」戦艦「比叡」艦長の時には、戦艦の艦長たる者が航海中に船酔いで寝ている訳には行かず、一番困ったという。
戦後、生計を立てる為に始めた「井上塾」だが、本当に月謝を取っていたかは疑問があるそうだ、生活は困難を極め、個人の所有物を切り売りし、最後には「これだけは」と言って残した海軍の軍帽、後は僅かな原書の本類程度しか残っていなかったようだ、昭和二十年十月から、潰瘍で倒れるニ十八年六月まで塾生百二十五人に及んだそうだ。
面白い話がある、「井上塾」ではお手製の「こんにゃく版印刷」が使われていたそうだ、濃いインクで書かれた紙をコンニャクの上に被せると、紙のインクがコンニャクの上に転写される、そのコンニャクの上に別の紙を被せると、今度はコンニャクから紙に再度インクが転写されるという原理である、20枚程度なら可能だったとか。
軍人恩給の復活(1953年(昭和28年)まで非常な困窮だったと言われる。
井上成美は、昭和五十年十二月十五日に亡くなられた、東京都府中市の多摩霊園二十一区一棟三側にある「井上家の墓」で、先妻の喜久代さんを右に、 後妻の富士子さんを左に静かに眠っている。

早朝の井上成美記念館

問い合わせが多いので住所を貼って置く(ただし現在閉館中)

門柱、扉は無くなっている

隣に郵便受けが付いていたと思われる、ブロック塀が付属する

汚れてはいるが、廃屋な感じではない

立派な看板だが閉館中

足元には移植された海軍柱

閉鎖されてから、大分経つ様だ

見上げるとスチムニーが1本(元々は2本で、8割は改装されている、暖炉まわりだけがオリジナルらしい)

窓から覗くと見事に何も無い部屋(暖炉の上にあるのは艦長だった戦艦「比叡」だろうか?)

窓際に置いてある本


ただ、劣化していく写真達、市や国で何とか成らないのか?

ポストの名義、某人物に調べて頂いた物によると、㈱リゾートコンベンション企画 井上成美記念館 深田智之名義
井上成美氏の教え子の海兵73期卒の深田英明氏の息子さんと思われる人の名義の様だ、管理者?
それにしては、扱いがぞんざいだ、まぁ時代と世代が変ったと言う事だろう。

庭からは海岸が見える、そうだ海岸陣地に行こう

漁港に車を停めて、歩いて行く

赤手蟹

旧軍道を辿って約1kmほど

まだ、埋もれずに残っていた
長浜狙撃用洞窟陣地を堪能する

ゅんのすけ様から頂いた壕口情報を確認しに汐入町3丁目に向った

しかし、残念ながら5mほどの家庭用防空壕の様だった
夏島地下壕に向う

夏場の壕内は湿度は高いがひんやりして涼しい

いつもと変らない時間が流れる避暑地

格納壕も変らずガレている

海軍食器もいい感じだ

居住区も湿度が高い

最近の探索者は無茶が多い、車輪が壊れている

タンクローリーはまた移動している

ペプシのビン

最深部の米軍の穴開き鉄板

旧軍の木甲板

最後まで残っていた飾金具が打ち捨てられていた、自然落下では無いのだろう

2時間ほど堪能した

その後野島に消えて行く影が一つ
終戦記念日慰霊の旅
この世界は情報が一番大事だ、隠す事無く出切る範囲で伝えて行こうと思っていたが、最近考えさせられる
貝山上部壕にも見られる、ブロック破壊、盗掘や、落書き、部分破壊が、あちこちで目に付く様になった
また、一部友人からもネットでの情報開示に危惧を示された、閲覧者数が増える事は嬉しい事だが
反面、心無い遊び感覚の訪問者による訪問も増える、この様な事態を招くなら、ブログ閉鎖も考えに入れた方が良いのかも知れない
まだまだ、紹介しきれない遺構が沢山有るので当面は続行するが、先は判らない
死んだ人は戻らない様に、壊した物も元には戻らない、だから大事にしよう
これを読んで、笑う人が大半でも良い、一人でも感じる人がいれば無駄ではないと思う