
すでに新幹線から富士山を見ても、何とも思わなくなった自分がいる
それだけ京都へ通い詰めている

京都にしては、軽くうねった道、松原通
京都人は道がカーブすると不安になるらしい

松原橋を渡る、元はここに五条橋が架かっていた事はあまり知られていない、
牛若丸と弁慶が闘ったのもここ!

鴨川、なぜ二本に分かれているのだろう?
実は川床の為に支流を作ったのだ

この川にせり出した川床は、夏が終わるとそのつど撤去される、
大正時代からの風物詩だ

遠くに御山が見える、いい場所だ

絵に描いてみるとこんな感じかな?

鴨川の流れは落ち着いていい

松原通から、宮川町通へ向う

長刀鉾のちまきがかかっている

あまり人の歩いていない静かな通り

その中にもロージとズシはある

玄関の屋根の上に

ちっさいおじさん(鍾馗さん)がおった
「鍾馗さん」は 唐の玄宗皇帝の夢枕に現れて 鬼を退散させたという中国の話にちなんだ 魔よけの神様なのだそうだ
屋根瓦と同じ素材で出来ているのだが、大量生産はされず、注文生産のみで全てオリジナルの一品物であるそうだ
服装から体格に至るまで、みんな個性があるので、見ていて面白い!

宮川町通は、ちっさいおじさんの宝庫であった

うっかりしていると、見落としてしまう

色合いやポーズもまちまちで、面白い

辻地蔵も綺麗な物が多かった

逆光で正面から撮れなかったが、舞子さんの学校、宮川町歌舞練場

宮川町は歴史的景観保全修景地区に指定されている

にしんそば、京都と北海道のみで食べられるレアな御蕎麦

ちょっと変ったお店があった

変身処「舞香」、観光客に舞子さんの格好でもさせてくれるのだろう

この右下にある竹で組まれたものは、関東では全く見かけない物だが、京都では街中でもポピュラーな物だ
部屋の中を覗き込まれないようにする為の物だそうだ

裏具、オリジナル文具やさん

ロージの奥に店舗があるが、開店前だった

落ちない様に、縛られているちっさいおじさん

こっちは針金で繋がれている

なんだこれは、始めて見た!

宙に浮いてるちっさいおじさん、頭部が損傷して見えるので、落ちてしまったのだろう

新目の家にもブロンズのちっさいおじさんが乗っていた

所々に古い土蔵が見え隠れする

早朝の通りは人通りも無く、店も開かず静かだ

一区画に一つの割合であると言う辻地蔵、
地元の人は感謝を欠かさず共に生活をする

COFFE琥珀、わりと有名らしい

建仁寺の一画

ウインズ隣の祇園甲部歌舞練場

花見小路通

旧四条小橋の欄干?

人一人いない時間は良い

辻地蔵も大事にされている

和バル「OKU」、あの美山荘の支店である
ここの抹茶ダクワーズが美味いらしい

意外とリーズナブルなお値段

後、一時間もすれば、観光客でごった返す花見小路

端っこまで歩いて来た

昔は影の町、今は一番京都らしいと言われる通になっている
CM効果と地域の努力で、明るく見える昨今だが、歴史的に見るとここは、関東で言う所の吉原に相当する町である
場外馬券所もあり、一本奥に入ると風俗店もあるが、上手く隠されている
現在、京都には上七軒・祇園甲部・祇園東(祇園乙部)・先斗町・宮川町の5つの花街があり、これを総称して五花街(ごかがい)と呼んでいる。
甲部、乙部とは乙部が歴史上はもともと祇園の一部だったことに由来する、乙部が甲乙と差をつけられているのは、実は祇園から下部団体として切り離されたからである、当然ステイタス的にもかなりの落差が出来上がった。
本来、お茶屋とは、座敷を貸し出すだけで、そこに舞妓さんや芸妓さんが常駐しているわけではなかったのだ
置屋と呼ばれる事務所に所属しているのが舞妓さんや芸妓さんで、女将さんと舞妓さんが親子のような擬似親子関係を持ちつつ営業活動をするのだ
お客さんはお茶屋に、置屋の舞妓さんや芸妓さんを呼び出す形で、今で言う同伴となるそうだ
今はお茶屋と置屋をかねているのが一般的になっているそうだ。
戦前は舞妓・芸妓と一口にいっても上から下まで範囲があった、知識や教養、踊りや小唄の技術がない舞妓やら芸妓はその身を売ることもあった、むしろそれを専門にした人たちで関東の吉原のような地区も何処とは言わないがあった。
いまのお茶屋業はむしろコンパニオン派遣会社に近い営業をしていて、主収入は宴会、座敷などへの派遣代(花代)、座敷使用料であるとされる。
宮川町に鍾馗さんが多いのは、そんな歴史背景により、魔除け的な物に縋る様な環境だったのだろうか?
考えさせられるものがある。