京都 祇園祭(2016年) その2(月鉾)
今回の記事は【 月 鉾 】のみです
次回の記事は【菊水鉾】です!
月鉾は、山鉾33基の中でも最も大きく、重い鉾で、12トンに及ぶ、鉾を飾る装飾も細部に至るまで素晴らしく、動く美術館と讃えられているほど美しい。
「古事記」によれば、伊奘諾尊が黄泉の国から戻り、禊祓いをされたとき、左眼を洗って天照大神、右眼を洗って月読尊を、こののち鼻を洗って素戔嗚尊を生んだとされ、この時より月読尊は夜を支配する神となったが、水徳の神でもあることから、月鉾には、月や水に関連する装飾品が多くみられる。

月鉾は、文献によると、応仁の乱以前よりあり、その昔は「かつら男ほく(ほこ)」と呼ばれていた、鉾頭に“新月”をいただき、天王座には“月読尊”を祀っていることから、その後“月鉾”と呼ばれるようになった。

鉾頭には、18金の三日月、鉾の屋根鬼板部分には三本足の烏(ヤタガラス:神話では太陽の使いとされている)、屋根下の破風部分は時計草などの細密な金具彫刻で覆われ、破風中央下には、左甚五郎作といわれる“うさぎ”の彫り物、屋根裏には、江戸中期を代表する画家、円山応挙作の“金地彩色草花図”、天井裏には、岩城清右衛門作“源氏物語五十四帖扇面散図”、前掛けは、17世紀インドムガール王朝時代の「メダリオン緞通」、見送りは皆川月華作“黎明図”、また天水引には、円山応震下絵の“霊獣図刺繍”等々、見ごたえのある装飾品で飾られている。

稚児人形の「於兎丸」は、現代的な容貌で明治四十五年五代目伊東久重作であり、その前年までは生稚児が乗っていた。

月鉾の駒形提灯は、白を基調としている

逆光に映える月鉾、和菓子の老舗、亀谷良長も保存に協力している

月鉾の向こうに函谷鉾が見える、街の道路状況が分るだろうか?

ビルと比べると、月鉾の巨大さが分るだろう

地域の有力スポンサー達

まだ、手ぬぐいなどのグッズ販売の準備が整っていないようだった

近寄ると、更に大きく感じる月鉾

一つだけ入る、赤い提灯が他の白さを際立てる

下から見上げる月鉾本体、ビルの二階では足りずに、階段が付け足してあるのが見える

ビニールが反射して見にくいが、美しい装飾が一面に見える

左甚五郎作といわれる“うさぎ”の彫り物や、破風部分は時計草などの細密な金具彫刻

四条通に並ぶ月鉾はかなり目立つ存在だ、装飾が目を引く

3本足の烏(ヤタガラス)は太陽の象徴といわれる

軒先は花菱文金具で飾られている、金具類の下絵はすべて松村景文、梁と桁は、精巧な『貝尽し』で飾られている
巧緻に表現された二枚貝や巻貝、うになど、大錺屋勘右衛門の見事な飾金具である

青空に良く映える、白色の提灯

山鉾の懸装品は、巡行日の正装用の第一装と、巡行を待つ間の山鉾を飾る第二装、三装など数種類ある

真木の横に伸びる、榊も特徴的だ

正面側のスポンサー提灯

赤と白のコントラストもまた良い

街の中に立つ山鉾は、異空間にも見える

昼の提灯もいいが、夜に見るとまた、違う味わいが見える

上にも下にも提灯があるので、見ていて楽しいし気分が盛り上がる

鉾頭 、金の三日月は直径が40センチもある

他にいくつかの古い三日月を所蔵し、その中で最も古いものには元亀4年(1573)の刻銘があり、歴史を感じる

榊の中心に白幣、榊には小しで多数の真木の幣(紙垂)がある

個人的には、一番気に入った鉾である
文化文政(江戸後期)の美術爛熟期に工芸装飾の充実に力を注ぎ、当代随一の名工の力を得た飾金具類は圧巻だ。
また、左甚五郎作と伝えられる彫刻、円山応挙の屋根裏絵画、天井の源氏五十四帖扇面散図などその華麗さ豪華さは山鉾の中でも屈指のものと言われる、一見の価値はあると思う。
山鉾とは、巨大かつ壮麗な「鉾」と、台上の趣向で特徴を出す「山」の2種類が代表的なものであると言える
山の中でも岩戸山、北観音山、南観音山の三山は、屋根と車輪を付けた鉾とほぼ同じ形態の「曳山」である。
ただ、真木(しんぎ)のかわりに松の木を立てている。
関東人のyakumoにとって、これらの識別は難しいが、そんな目で見て行くとより一層楽しめる
元々は疫病、災厄を収めるための必死の祭事だったのだろうが、今は過去の人達の思いを繋ぎ
受け継がれて来た伝統と文化を広く伝えながら、街中が一体となり、楽しみながら後世の人達に
受け継いで行く、老若男女問わず、人の心の通い合う大切な祭事となっていると思う。
次回の記事は【菊水鉾】です!
月鉾は、山鉾33基の中でも最も大きく、重い鉾で、12トンに及ぶ、鉾を飾る装飾も細部に至るまで素晴らしく、動く美術館と讃えられているほど美しい。
「古事記」によれば、伊奘諾尊が黄泉の国から戻り、禊祓いをされたとき、左眼を洗って天照大神、右眼を洗って月読尊を、こののち鼻を洗って素戔嗚尊を生んだとされ、この時より月読尊は夜を支配する神となったが、水徳の神でもあることから、月鉾には、月や水に関連する装飾品が多くみられる。

月鉾は、文献によると、応仁の乱以前よりあり、その昔は「かつら男ほく(ほこ)」と呼ばれていた、鉾頭に“新月”をいただき、天王座には“月読尊”を祀っていることから、その後“月鉾”と呼ばれるようになった。

鉾頭には、18金の三日月、鉾の屋根鬼板部分には三本足の烏(ヤタガラス:神話では太陽の使いとされている)、屋根下の破風部分は時計草などの細密な金具彫刻で覆われ、破風中央下には、左甚五郎作といわれる“うさぎ”の彫り物、屋根裏には、江戸中期を代表する画家、円山応挙作の“金地彩色草花図”、天井裏には、岩城清右衛門作“源氏物語五十四帖扇面散図”、前掛けは、17世紀インドムガール王朝時代の「メダリオン緞通」、見送りは皆川月華作“黎明図”、また天水引には、円山応震下絵の“霊獣図刺繍”等々、見ごたえのある装飾品で飾られている。

稚児人形の「於兎丸」は、現代的な容貌で明治四十五年五代目伊東久重作であり、その前年までは生稚児が乗っていた。

月鉾の駒形提灯は、白を基調としている

逆光に映える月鉾、和菓子の老舗、亀谷良長も保存に協力している

月鉾の向こうに函谷鉾が見える、街の道路状況が分るだろうか?

ビルと比べると、月鉾の巨大さが分るだろう

地域の有力スポンサー達

まだ、手ぬぐいなどのグッズ販売の準備が整っていないようだった

近寄ると、更に大きく感じる月鉾

一つだけ入る、赤い提灯が他の白さを際立てる

下から見上げる月鉾本体、ビルの二階では足りずに、階段が付け足してあるのが見える

ビニールが反射して見にくいが、美しい装飾が一面に見える

左甚五郎作といわれる“うさぎ”の彫り物や、破風部分は時計草などの細密な金具彫刻

四条通に並ぶ月鉾はかなり目立つ存在だ、装飾が目を引く

3本足の烏(ヤタガラス)は太陽の象徴といわれる

軒先は花菱文金具で飾られている、金具類の下絵はすべて松村景文、梁と桁は、精巧な『貝尽し』で飾られている
巧緻に表現された二枚貝や巻貝、うになど、大錺屋勘右衛門の見事な飾金具である

青空に良く映える、白色の提灯

山鉾の懸装品は、巡行日の正装用の第一装と、巡行を待つ間の山鉾を飾る第二装、三装など数種類ある

真木の横に伸びる、榊も特徴的だ

正面側のスポンサー提灯

赤と白のコントラストもまた良い

街の中に立つ山鉾は、異空間にも見える

昼の提灯もいいが、夜に見るとまた、違う味わいが見える

上にも下にも提灯があるので、見ていて楽しいし気分が盛り上がる

鉾頭 、金の三日月は直径が40センチもある

他にいくつかの古い三日月を所蔵し、その中で最も古いものには元亀4年(1573)の刻銘があり、歴史を感じる

榊の中心に白幣、榊には小しで多数の真木の幣(紙垂)がある

個人的には、一番気に入った鉾である
文化文政(江戸後期)の美術爛熟期に工芸装飾の充実に力を注ぎ、当代随一の名工の力を得た飾金具類は圧巻だ。
また、左甚五郎作と伝えられる彫刻、円山応挙の屋根裏絵画、天井の源氏五十四帖扇面散図などその華麗さ豪華さは山鉾の中でも屈指のものと言われる、一見の価値はあると思う。
山鉾とは、巨大かつ壮麗な「鉾」と、台上の趣向で特徴を出す「山」の2種類が代表的なものであると言える
山の中でも岩戸山、北観音山、南観音山の三山は、屋根と車輪を付けた鉾とほぼ同じ形態の「曳山」である。
ただ、真木(しんぎ)のかわりに松の木を立てている。
関東人のyakumoにとって、これらの識別は難しいが、そんな目で見て行くとより一層楽しめる
元々は疫病、災厄を収めるための必死の祭事だったのだろうが、今は過去の人達の思いを繋ぎ
受け継がれて来た伝統と文化を広く伝えながら、街中が一体となり、楽しみながら後世の人達に
受け継いで行く、老若男女問わず、人の心の通い合う大切な祭事となっていると思う。
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