fc2ブログ

愛する恐ろしい京都 (地理編)

関西圏と関東圏では、当然の事ながら言葉(関西弁、関東弁)も違う、風習も違う
東男yakumoが、京都において困った事、感じた事、感心した事などを、横浜人目線で書いてみる
始めに断って置くが、京都を卑下する、下に見るなどと戯けた意味合いではない、ただ感じた違いを
京女sanaの監修の元に、ちょっと綴ってみたくなったのだ。
なお、京都市全体では無く、概ね洛中(京都中心地)の限られた地域においての比較である
なんせ洛中以外の外へ、あまり出た事が無いので、紹介しようも無いのである・・・(中途半端ですいません)


方向感覚の違い


まずは地理的な事になるが、京都は四角い碁盤目の中に街がある(ほぼ坂道すらない)
対して横浜は山間の狭い隙間にびっしりと建物が並ぶ関係で、100メートル直線があったら珍しい
(この直線とは坂道やゆるいカーブは除外、あくまで100メートル先まで見通せると言う定義です)
3Dダンジョンを想像して貰いたい、yakumoにとって京都の街は、リアル3Dダンジョンだった

完全な碁盤目ではなく、不規則な大きさのブロックに泣かされた、角を2回曲がると位置を見失う
横浜だと目印の高層ビル(ランドマーク等)などで、位置確認出切るが、京都市は条例で高層建築物が無い
京都駅付近だったらロウソク(京都タワー)が目印になるが、そこから上がって(北上して)しまうと何も無い
DSC01197_R_201609190930414a5.jpg
京都タワーより高い建築物は多分無い
京女のsanaは、ダンジョンの如くの街中を「なんでこんな簡単な道が解らんのや?」ってスタスタ行ってしまう
撮影中にはぐれる事度々・・・
どうやらsanaは頭の中で現在地のマッピングが出来ていて、迷う事が無いらしい
逆に神戸や横浜の港町に行くと、道が曲がっていて解らなくなると言っていた
生活環境において、地理感覚が違うようだ


東西南北の違い


横浜では普通に東西南北で方向をあまり表さない、横浜を起点にしたら国道何号線を川崎方面に~とか
横須賀方面に~って感じで説明する、後は〇〇交差点を右折って感じに補足する
これは道が曲がりくねっている為、東西南北に真っ直ぐ進めないからだ
しかし京都の城の内(中心地)は違う、1200年前の平安京の時代から碁盤の目状に道路が出来ているのだ

京都では関東の常識ではかなり困る住所の書き方をしてある、ここに東西南北の違いがある
DSC00781_R_20160917225904bf5.jpg
注目は【下る(さがる)】の部分、南って意味だ、番地が無いのが普通だ(ある所もある)
1474280628740_R.jpg
【上がる(あがる)】だとこんな感じ、多分最新型の表示板だろう
P1030948_R.jpg
【室町通二条下る】の部分は、「縦の通り[室町通]」+「横の通り[二条(通)]」+「方角[下る]」という構成になっている。
大体は、「当該建物と直接面している通り」か「縦の通り」を先に記し、その後に「縦の通りと交差し、当該建物に近い方の横の通り」を記すというのが基本的な法則となっているようだ。
そしてその下に、縦の通りと横の通りが交差している地点から見て、当該建物が北側にあれば「上る(あがる)」、南側にあれば「下る(さがる)」、東側なら「東入る(ひがしいる)」、西側なら「西入る(にしいる)」と続くわけである
1474280548511_R.jpg
これはレアな町の境界にある表示板、上がる(あがる)下がる(さがる)の表示が面白い
1474280572948_R.jpg
東入ル(ひがしいる)
1474280592880_R.jpg
西入ル(にしいる)いろんなプレートがあって面白い
1474280606338_R.jpg
下る(さがる)、昭和風のブリキの仁丹看板が、マニアに喜ばれそうだ
IMG_2072_R.jpg
割りとレアな表記板を見かけた、仏光寺通を烏丸通りから東に入って路地を南下するって意味だ
IMG_1968_R.jpg
烏丸通りに面していて一条通りに北上して路地を西に入った所って意味だ、位置関係によって太い道、近い道の優先順位が変わって来る、これを一目で見分けられたら京都に住めるで

横浜では何町何番何号まで電柱などにも表記してある、京都ではこの住所に宛名を書けば郵便物は届くらしい
京都では非常に住民の移動が少なく、長く定住している人が殆んどで結果的に新しい人も、新たに入居する隙が無いから入って来れない
そんな状況だから成立する、京都においてのみ流通している住所表記の特徴である

ここで関東の東西南北との違いを書いて見ると
北=上る(あがる)・・・のぼるではない(例、上り線)
南=下る(さがる)・・・くだると読んだら「さがるや!」てsanaに怒られた
東=東入る(ひがしいる)
西=西入る(にしいる)・・・るを書かない場合もあり、また、カタカナ(ル)での表記も多い

京都は碁盤の目になっているので、こんな言い方がされている、御所(天皇)に向かって南北の通りを北に向かう「上る(あがる)」、御所から南北の通りを南に遠ざかる事を「下る(さがる)」といった所からきています。
「東入る(ひがしいる)」は東へ行く、「西入る(にしいる)」は西に行くそのまんまの意味
これは全て御所を中心に考えられた意味であるが、最近では御所と関係なく、市内では北=「上る」、南=「下る」といった意味で使われているようだ。
また、当時と違い現在は御所より北まで街が広がっていて御所より北側にある街でも、北へ行く事を「上る」、南は「下る」と言う。

上がる下がるについては諸説あり、一つの有力説は地理的事情によるものだ、「北に山、南に湖沼」といった風水に基づく立地条件を満たす場所として、平安京造営に選ばれたと言われている京都盆地であるが、愛宕山、岩倉山など北部に山が連なり、南には当時巨椋池があった(埋められた)この土地は、南側が低地で北に向かって緩やかな傾斜で高くなっている、この高低差から北側は上る、南側は下ると表現されたという。
1474280550872_R.jpg
1474280603658_R.jpg
1474280609235_R.jpg
街中の掲示板にも、住所が表記されている、町名が少しわかりやすい(町内掲示板やし)

余談ではあるが、カーナビの場合は「上がる、下がる、西入る、東入る」では、ほとんど認識されない
観光客向けのレンタカーには予め観光候補地がカーナビに登録されているから迷う事はないだろう
安心して京都に来て欲しい


京都は主要な通りに全て名前がある


横浜では国道、県道、市道以外は殆んど名前が周知される事は無い、しかし京都は違う
DSC03521_R_2016091722471780a.jpg
DSC03520_R_201609172247161ce.jpg
こんな風に、覚えやすくする為の歌もある (sanaの部屋で以前紹介した歌
DSC03522_R_201609172247183f6.jpg
正に碁盤の目のような・・・
DSC03522_R_20160918131449a45.jpg
このパネルは観光客向けに横になっているので、本来の地理的には御所が上、京都駅が下な感じになる
P1030952_R_20160917225905cbf.jpg
これを普通に全部覚えているらしい、ちなみにこれは縦方向の通りのみ、当然横方向の名前も存在する


以外に慣れると解りやすい交差点名


横浜だと〇〇町交差点とか、駅などの公共物名を使った交差点名が多く見られる
京都では上記で説明した縦の通り(南北)の名前と、横の通り(東西)の名前を合わせた名前となっている
表記法方は縦(南北)の道が先に来る方が多いが、四条通だけはメインストーリートのせいか、横(東西)の道の四条が前に表記される
DSC00599_R_201609181951343fd.jpg
堀川通りが"縦(南北)"で、御池通りが"横(東西)"の通りである、交差点名は「堀川御池」交差点となる
1474211233349_R.jpg
七本松通りが"縦(南北)"方向、御池通りが"横(東西)"方向で「七本松御池」交差点となる、こんな感じになるのは碁盤の目ならではだろう
1474280639089_R.jpg
もう一つ例を挙げると烏丸通りが"縦(南北)"方向、丸太町通りが"横(東西)"方向、
1474280642642_R.jpg
この場合は「烏丸丸太町」交差点となる
IMG_2104_R.jpg
例外的な交差点、「四条烏丸」交差点
IMG_2103_R.jpg
本当にこの四条だけが先に来る
1474280645321_R.jpg
ちなみに交差点そばのバス停も同じ様な書き方になる、ちゃんと四条烏丸の場合は四条が先に書いてある
IMG_2101_R.jpg
確認の為に四条烏丸バス停も新たに撮ってきた

ある程度通りの名前を覚えて来ると、結構有効なポイント表示だと思えてくるのだが
最初の内は縦の道と横の道が解らないので、交差点名を見てもかなり難しかったと言うか、解らないのが現実だった

しかしすべてがそうなのではなく、四条通と東大路通の交差点は「祇園」、西大路通と丸太町通の交差点は「円町」、今出川通と東大路通の交差点は「百万遍」と呼称している、これは都市計画による新たな街路が敷設された場合に、交差点名として伝統的な地名を採用したものが多いのだそうだ


右京区、左京区が逆配置?


京都市の地図を見てみると、左京区が右側、右京区が左側という逆の位置関係になっている。
中国の古典に「天子、南面す」という言葉がある、君主は北を背に南に向かって君臨し、政務を司るしきたりがあったのだ。
長安など古代中国の王城都市はこれに従い、都の北部中央に王が鎮座する宮城が位置し、そこから南に向かって区画が広がる造りとなっていた。

中国の都に倣って築かれた平安京ももちろん同様であり、北端中央の宮城から南に向かって都を見渡した天皇の視点を基準に、中央の朱雀大路より左手は左京、右手は右京と呼ばれるようになった。
なお、現在は朱雀大路は完全に失われて都市整備されている、僅かに地名や学校名等に痕跡が見られるだけである
Heijokyo_R.jpg
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (中央の道が朱雀大路)

歴史雑談録様の記事内に平安京と現代地図との見やすい比較図があるので、参考にさせて頂きます

歴史マニアともなればですね、例えば、京都での待ち合わせなんかは、以下のような感じの日常会話になることでしょう。

「明日の合コン、大内裏は南、美福門で待ち合わせな。」
「二条城の中やんけ、アホか。店、押小路沿いやろ? 皇嘉門あたりがええて。」
「刑部省らへん? うち、二条四坊やから近いわぁ」

という風に、「京都は平安京におます」という前提で見るのが、歴士・歴女の雅なマナーでございますねぇ。
(以上、歴史雑談録様の記事内より)


上図を見ると、一般の観光客が喜んで「京都らしい」と思っている清水寺、祇園、知恩院、南禅寺、平安神宮、銀閣寺方面は
京都の外側に位置している
古来から京都に住んでいる人からすると「そこは京都ではない」と認識されている場所である
次の機会に説明するが、京都では平安京の枠内(城の内)が、本来の京都であると認識されている所があるのだ
古来より、一般の観光客が喜んで「京都らしい」と思っているその地域は、刑場や死体捨て場、風俗関連の地域であり、あまり好ましい場所では無かったようだ
以前にも紹介した「蹴上」などは、南禅寺、インクラインなどの観光のメッカとなっているが、元々の由来は
泣き叫ぶ罪人を、蹴り上げながら刑場に歩かせる道から来ているのだ。おーこわっ。


膨大な数の町名がある京都


横浜では普通、例として横浜市中区桜木町〇丁目の次に〇番地〇号と続くのだが、京都には〇丁目に当たる物が無い
桜木町は1~7丁目から成り、1~3丁目は中区、4~7丁目は西区に属するややこしい所だが7つに町が分かれている
京都の場合はこの7つに個別の名前(町名)が付いている、だから町名が膨大な数になってしまっているのだ

また、同一の町名が同一区内のあちこちにあるので困ってしまう
たとえば中京区内に「亀屋町」は5ヶ所あり、さらには下京区にも2ヶ所、上京区にも4ヶ所ある。
このような同一町名は中京区内だけでも32ヶ所もある、他には中京区に八百屋町が2ヶ所、油屋町が3ヶ所、そして先に上げた亀屋町が5ヶ所もある。
また、上京区には亀屋町が4ヶ所、東町が3ヶ所といった具合である、これらは一つの町の飛び地ではなく、関係のないまったく別の町である。
ただし、同じ町名でもそれぞれ郵便番号が異なるため、7桁の郵便番号を記載すれば、街路名がなくとも郵便物は配達される。

余談だが近年、街路名を用いた住所表記では、インターネットの地図サイトやカーナビゲーションで検索できないという理由で、街路名を含まない町名と番地だけで住所表記する事例も増えている
スポンサーサイト



京都 アサンブラージュ カキモト 、 kyotoORTO / オルト

038_R_201609011636262d3.jpg
上賀茂神社をたっぷりと堪能した
111_R_20160901163628ed9.jpg
神社を出て街中に戻って行く
112_R_20160901163629f9f.jpg
バスもあるが、あえて歩いて行く事にした
113_R_20160901163631102.jpg
巨大ないけず石、こんな場所だとほんまに必要そうだ、角が危ない
115_R_20160901165629105.jpg
賀茂川を越える橋は架け替え工事が続いている
116_R_20160901165630f05.jpg
京の七夕は8月に行われる
118_R_20160901165632d51.jpg
場所にもよるが、6日~16日ぐらいでライトUPなども行っている
121_R_201609011716488f8.jpg
住宅地の角にあるお店
122_R_20160901171602a84.jpg
わりと有名らしい、出来立てわらび餅はうまかった
125_R_20160901171603059.jpg
京都御所の南端に戻って来た
128_R_20160901171606596.jpg
アサンブラージュ カキモト (ASSEMBLAGES KAKIMOTO)
IMG_1807_R.jpg
店内はsanaの部屋で見てください、Instagram インスタグラム 「 sana の部屋 」にもあり
DSC08237_R_20160901174934fb0.jpg
寺町通に出ると、行願寺がある
DSC08239_R_2016090117493619d.jpg
こじんまりしているが、わりと味がある一千年の歴史をもつお寺(移転を繰り返している)
DSC08240_R_20160901174938bae.jpg
時間のせいか、参拝者は他にいなかった
DSC08242_R_20160901174939239.jpg
都七福神
DSC08244_R_20160901174940be8.jpg
お寺などは17時で閉めてしまう事が多い
DSC08245_R_20160901180800a1e.jpg
猫と遊んでいる内に、閉められてしまって開けてもらった
IMG_1785_R.jpg
最後にDinnerを楽しむ
IMG_1787_R.jpg
最近一番のお気に入り、ORTO
IMG_1788_R.jpg
店内奥のワインセラー
IMG_1790_R.jpg
木目の綺麗なカウンター席
IMG_1791_R.jpg
カウンターの方が、お店の人と話も出来て楽しめる
IMG_1789_R.jpg
飲むのが好きな人も、満足出来るだろう
IMG_1794_R.jpg
2階にもテーブル席があるので、少数グループでも来れるだろう
IMG_1796_R.jpg
テーブルの端にあるオブジェ
IMG_1795_R.jpg
こんな所も好きである
IMG_1798_R.jpg
ちらっと見える中庭も良い
IMG_1803_R.jpg
メニューは事前に細かく解らないので、出てくるのが楽しみになる
IMG_1801_R_201609011840550fc.jpg
IMG_1802_R.jpg
お料理は月末sanaの部屋で9/24公開予定、、Instagram インスタグラム 「 sana の部屋 」で一部公開中
IMG_1806_R.jpg
帰り際にお土産をくれた、もちろん美味しかった

京都 真夏の上賀茂神社 (境内を回る)

DSC08157_R_20160830215646525.jpg
人の少ない内に奥に進む
DSC08158_R_2016082823461592d.jpg
櫻門に向かう
DSC08160_R_2016082823461776b.jpg
一礼して門をくぐる
DSC08161_R_20160828234618ce6.jpg
本殿正面から参拝する
DSC08163_R_20160828234619761.jpg
本殿を垣間見る
DSC08164_R_20160829074304b23.jpg
社殿の屋根が檜の皮で出来ているので、協力を呼び掛けている
DSC08165_R_20160829074306cc2.jpg
片岡橋を渡って行く
DSC08167_R_2016082907430770b.jpg
櫻門はとてもキレイだ
DSC08169_R_20160829074308d4a.jpg
橋殿越しに、二の鳥居を見る
DSC08170_R_20160829191908546.jpg
DSC08171_R_201608291919104c5.jpg
紫式部歌碑
DSC08173_R_201608291919117c1.jpg
神社の中を流れている清らかな流れ
DSC08174_R_201608291919124f5.jpg
その河原の岩の上にお社が立っている
DSC08175_R_20160829191914c8b.jpg
岩本神社(バランスが微妙かもしれない)
DSC08176_R_20160829231620c3c.jpg
庭園沿いをのんびり歩いて行く
DSC08179_R_2016082923162106f.jpg
渉渓園の拝殿
DSC08183_R_20160829231622f6d.jpg
山口神社
DSC08185_R_20160829231623bde.jpg
境内でこんな石が転がっているだけの場所があると思うが、これは社殿の建て替えの跡で、古くなると横移動して建て替えるのだ
、社殿とは管理されている物はちゃんと立て直しをしている、かの伊勢神宮も20年ごとに立て直している事で有名
DSC08187_R_2016082923553125b.jpg
片岡山に登っていける様だが、行っていない
DSC08189_R_201608292355323de.jpg
渉渓園に入って行く
DSC08192_R_20160829235533a16.jpg
スダジイ(睦の木)
DSC08193_R_20160829235535de0.jpg
DSC08194_R_201608292355369f0.jpg
願い石(陰陽石)
DSC08188_R - コピー
渉渓園に並んで、庁ノ舎(北神饌所)の背面が見える
DSC08196_R - コピー
回り込むと藤棚が青々と茂っている
DSC08199_R_2016083020015696b.jpg
今は時間前だが、特別展示をやっているようだ
DSC08202_R.jpg
早朝だと見れない展示もあるが、逆にだからこそ見れる景色もたくさんある
DSC08203_R_201608302001593e6.jpg
食物産業の守護神を祀る奈良神社、社殿からは出汁の香りが漂っているので、匂いでみるといい
DSC08205_R_201608302240343de.jpg
校倉
DSC08208_R_201608302240364d8.jpg
ならの小川のせせらぎが、耳に心地よい
DSC08209_R_20160830224037b4c.jpg
神事橋
DSC08211_R_201608302240384c9.jpg
石で砕ける水の音が涼しげだ
DSC08215_R_20160830232804eb6.jpg
DSC08214_R_20160830232803662.jpg
DSC08217_R_201608302328051b3.jpg
枝垂桜を満開の時に見てみたい
DSC08218_R_20160830232807be8.jpg
自分は京都の中のどの仏閣よりも、この上賀茂神社が気に入っている
誰しもお気に入りの場所ってあるだろう、自分にとってはここがそうなのだ
何か心惹かれる物を感じる場所、とても落ち着く場所
大切な場所って、見つけられたらその人は幸せなんだろうな、きっと
これをsanaに言ったら、「それを「依身(えしん)より依所(えしょ)」て言うんやない? 」って言われた
sanaは若いのに比叡山 無動寺の光永 圓道大阿闍梨さまの言葉なんて知っていて、博識さに驚いた
「心の拠り所を人との繋がりだけに求めず、心が落ち着く場所や環境を探しなさい。」って意味だ
もちろん自分はそんな事は知らず、感じたままに口にしただけであった
以前なら自分の依所は地下壕であった、誰もいない地下壕を何時間も歩き回るのが好きだった
そんな自分が日の当たる所を歩いている、心休まる場所まで見つけてしまった、不思議だ・・・
一つの出会いで人は変る、二人とも同じ場所を好きになった
これからもこの場所を好きでいつづけるだろう、
お互いが心の拠り所でいられるって、幸せだと思う

京都 真夏の上賀茂神社(猫の路)

001_R_20160827204320fbd.jpg
北山のとある路地裏を歩いて行くとブロック塀ぞいの路がある
003_R_2016082720432296f.jpg
二人で「猫の路」と呼んでいるお気に入りのロージだ
004_R_2016082720432366b.jpg
非常にクランクしている人気の無いロージ
005_R_20160827204325baf.jpg
歩いていると、猫にでもなった気分になれる
007_R_201608272043266fb.jpg
しかし実際にこの路で猫に出会ったことは無い
009_R_20160827214708396.jpg
仕方が無いので自分が猫目線になってみる
008_R_20160827214711a17.jpg
塀の上にも行ってみようと思ったが、向こうは幼稚園なので止めておいた
011_R_20160827214710f51.jpg
焼き杉の壁面も古い家屋では良く見られる
012_R_2016082721590651f.jpg
ふと見上げると、ざくろが大量になっていた
015_R_20160827215908baf.jpg
通に出てしばらく歩くと
016_R_201608272159105a7.jpg
自分の好きな路に出る
018_R_20160827215911db6.jpg
人っ子一人いないこの通り、遠くに見える御山と
019_R_20160827215912c53.jpg
涼やかな川の音がする路、上賀茂本通
020_R_20160827220518480.jpg
この川の水は上賀茂神社から流れてくる清められた水
021_R_2016082722052002f.jpg
個人的にとても好きな路
024_R_201608272205239b6.jpg
以前立ち寄った「伊之助」はまだ開店前、おばんざいを食べ損ねた
023_R_20160827220522f95.jpg
この川に架かる個人宅用の橋は同じ物が無く、見ていて個性を感じる
025_R_20160827220524e1c.jpg
面白いものは何処にでも転がっている
027_R_20160827221948311.jpg
橋を眺めながら歩いて行く
030_R_201608272219501e4.jpg
上賀茂神社に着いた
032_R_20160827221951179.jpg
世界文化遺産「上賀茂神社」(賀茂別雷神社)
034_R_20160827221952b68.jpg
この清清しい雰囲気と空気が好きな場所だ
037_R_20160827221953140.jpg
枝垂桜もいまは葉桜
041_R_20160827225010967.jpg
人のいないこの景色が見たくて、早朝からここにやって来ている
040_R_20160827225009af6.jpg
それだけの価値は十分にあると思っている
039_R_20160827225007b47.jpg
二の鳥居を潜る
043_R_20160827231622bbf.jpg
目に入るのが細殿と二対の立砂
044_R_2016082723162426d.jpg
立砂は、陰陽思想を紐解いて考えてみると細殿に向かって左が陽で、右が陰と考えられている
045_R_201608272316261d4.jpg
細殿に向かって左側に3本の松葉、右側に2本の松葉が刺してある、なぜ本数が異なるのかといえば、3葉と2葉を用いることで、陰陽思想の中において、奇数と偶数が合わさることで神の出現を願う意があるからなのだ。
047_R_20160827231628917.jpg
左の松葉は3本だ、3葉の松の木は珍しいが境内一本だけある、場所は一応伏せる
風向きや時間帯によって、崩れたり飛んでしまったりして、常時見れる訳では無いので注意
046_R_20160827231626d1f.jpg
円錐形の美しい形の神山(こうやま)に因んだもので一種の神籬(ひもろぎ)即ち神様が降りられる憑代(よりしろ)である。

呉 休石砲台

休石砲台は音戸の瀬戸の防衛目的に、、 9cm速射カノン砲2門を配備していた
明治34年3月に竣工しているが、大正15年8月には廃止されている。
老人ホーム裏手の山にあり、音戸の瀬戸公園からもアクセス出来るがホーム側の方が近いと言うか、敷地内だ
DSC07831_R_20160301230557e67.jpg
灰ヶ原砲台の探索後、下に降りて来たら雨が弱くなってきた
DSC07832_R_20160301230558ed3.jpg
目印の音戸大橋の下をくぐる
DSC07834_R_201603012305595d5.jpg
音戸方面に走る
DSC07835_R_201603012306019a5.jpg
立派なループ橋なのだが、観光地にはならないようだ
DSC07836_R_20160301230602e45.jpg
目的地、某老人ホームに到着
DSC07837_R_20160301231359aff.jpg
ホーム受け付けで、事情を説明して敷地内に立ち入らせて貰った
DSC07838_R_20160301231401573.jpg
敷地奥に、音戸の瀬戸公園への接続口がある
DSC07839_R_201603012314020a9.jpg
こちらから登って行く
DSC07840_R_20160301231404d35.jpg
門柱が見えて来た
DSC07841_R_2016030123140586a.jpg
この門の向こう側が、目的の休石砲台であるが、夏の雨降りと、最悪のコンデションの訪問となった
DSC07842_R_201603012323036fd.jpg
金属は盗られているが、比較的良好な状態の門柱
DSC07843_R_20160301232304f80.jpg
濡れた草薮(膝丈ぐらい)を、変えのズボンも無いのに突入して行く
DSC07844_R_2016030123230502b.jpg
砲側弾置場が綺麗に残っている
DSC07845_R_20160301232307090.jpg
奥に穴が見えている
DSC07846_R_20160301232308d3b.jpg
明治砲台独特の上部構造
DSC07847_R_20160301233448a1c.jpg
フェンス越しに覗くと、御影石の前室が設けられた、弾薬庫だった
DSC07848_R_20160301233450972.jpg
状態はいいのだから、整備して公開しても良いと思うのだが・・・
DSC07849_R_20160301233451baf.jpg
小さな砲側弾置場が一つある
DSC07850_R_2016030123345285e.jpg
砲座の胸墻が並んでいる
DSC07853_R_201603012334540e6.jpg
砲座のコンクリート、V字の溝が入っているのだが、見難い
DSC07857_R.jpg
ちょっと掘ってみた、やっぱり良く見えない
DSC07855_R_201603022311127c8.jpg
折角の遺構なのだから、もうちょっと綺麗にしてほしいものだ・・・
DSC07854_R_20160302231111302.jpg
胸墻側の砲側弾置場?はコンクリートで塗られていて、奥行きがある
DSC07859_R_20160302231115601.jpg
手前のは化粧石で綺麗に装飾されていた
DSC07858_R_20160302231114f04.jpg
蓋の取り付け金具は残っていた
DSC07860_R.jpg
砲座の中心に置かれた、無粋なタンクが景観を残念にしている
DSC07861_R_20160302232358bc1.jpg
周辺の石垣は不思議とコンクリートも使わず、雑然と積まれているようだ
DSC07863_R_20160302232359fff.jpg
施設部分にだけ、コンクリートは使っている
DSC07864_R_20160302232400c63.jpg
少し雨が緩んできた、そろそろ撤収する(砲座からの射界を望む)
DSC07865_R_20160302232402a66.jpg
音戸の瀬戸公園へは門柱からこの坂を登れば行けるようだが、いっていない
DSC07866_R_201603022333216f5.jpg
次の目的地に向って下山する
DSC07867_R_20160302233322169.jpg
ちゃんとホームにお礼を言って、少し話を聞いて見たが、砲台に関しては何も知らないようだった
DSC07868_R_20160302233323010.jpg
日本一短い航路「音戸の渡し船」 なる物がある、音戸の瀬戸90mを片道3分で結ぶ日本一短い定期航路で、建造から50年以上になる、長さ9m、定員50名の木造船が、音戸の瀬戸を軽快に往来している(片道70円は安すぎる)




広島の旅も終盤に入った、後1~2回書いたら終わるだろう
実は広島に行ったのは1年以上も前の事なのに、未だに書き終わらないのだ
どうしてもライブで進行している探索や自衛隊イベントが、先行してしまう
極めつけは雛さえあれば関西に行っている事が大きいだろう

最初の数回は見知らぬ慣れない風景に興味を惹かれて行った
回を重ねる毎に、方向性が確立して行くのに気付いた、自分のやりたい事
「今は京都の事が知りたい、そして楽しみたい」って考えた
大切なパートナーの街京都、この街をもっと良く知りたい
知る事で絆も深まって行く気がする、共に歩く事が楽しい
そう思える人がいる事がうれしい

今でも戦跡探索は好きだし、やってもいるが紹介物件が溜まって行くばかり
それだけ京都にはまっている、しかし金閣銀閣みたいなメジャーは興味がうすい
二人で歩く裏道や何気ない通、そんな所で見つけた気になるお店で食事をとる
小さな神社や古い建物を見るのが、たまらなく好きになった
そんな気持ちにさせてくれた出会いに感謝する
ずっと感謝しながら生きて行きたい、共に

呉 海軍工廠(串山公園)

DSC07873_R_201608271459081d8.jpg
串山公園には工廠神社や監視所などの遺構が残っている
DSC07880_R_20160827145909168.jpg
道路脇の藪のなかにコンクリートの遺構がチラッと見える
DSC07881_R_201608271459117b8.jpg
この看板の裏側に・・・
DSC07882_R_201608271459129ea.jpg
地下工場への入り口があるが、閉鎖されている
DSC07886_R_20160827145913e76.jpg
これも地下工場の入り口の一つ
DSC08045_R_201608271727456c1.jpg
DSC08046_R_20160827172747283.jpg
他にも何ヶ所か見えているが、いずれも塞がれている
DSC07884_R_201608271730066c9.jpg
産業神社の参道
DSC07885_R_20160827173007fef.jpg
当時で言う工廠神社である
DSC07998_R_20160827173009b89.jpg
のっけから結構な階段
DSC08000_R_201608271730100ca.jpg
更に階段が続く、こんなんは一気に上がるにかぎる
DSC08001_R_20160827173655c0a.jpg
階段脇の藪の中にさっきと同じコンクリート遺構がいくつか見える
DSC08002_R_20160827173657ec8.jpg
これらは地下工場の通気孔といわれている
DSC08004_R_201608271736584eb.jpg
階段を登って行くと左側に見えてきた
DSC08005_R_20160827173659425.jpg
防空監視所とその入り口(階段急すぎ)
DSC08006_R_20160827173702b6c.jpg
超分厚いコンクリートの監視所
DSC08013_R_201608271748592b4.jpg
こうして見ると分厚さが解るだろう
DSC08009_R_201608271748583cf.jpg
内部はゴミだらけ、右に入り口への連絡口が見える
DSC08015_R_20160827174900ec6.jpg
上に回り込む
DSC08017_R_20160827174903163.jpg
25mm単装機銃座の一つと言われている
DSC08018_R_20160827174904d68.jpg
海側前面は、丸く作られている
DSC08014_R_20160827175758528.jpg
最後の階段を登る
DSC08020_R_20160827175759f7c.jpg
神社自体は既に無い
DSC08021_R_20160827175801382.jpg
DSC08023_R_20160827175802753.jpg
わずかに痕跡が残るだけ
DSC08024_R_20160827181041a4c.jpg
眺めはよい
DSC08026_R_20160827181042ca7.jpg
潜水艦桟橋の先端にそうりゅう型がいるようだ
DSC08027_R_20160827181043025.jpg
右側には水上艦艇が群れている
DSC08030_R_20160827181046ef4.jpg
遊歩道を歩いて行く
DSC08031_R_20160827181046f1b.jpg
このコンクリート壁は当時物らしい
DSC08033_R_20160827184033b0c.jpg
他に何かないか付近を散策する
DSC08034_R_20160827184035249.jpg
怪しいものを発見
DSC08035_R_20160827184037796.jpg
場所はここ
DSC08038_R_20160827184038926.jpg
コンクリート屋根の退避壕だろうか?
DSC08040_R_20160827184039638.jpg
内側は煉瓦巻きだった
DSC08042_R_201609011624354d5.jpg
見上げると、絶対に住みたくない家がぶら下がっていた (怖すぎやし)
DSC08043_R_201608272013184d8.jpg
下の方にも不明なコンクリート構造物がある
DSC08044_R_2016082720131912f.jpg
歩道も車道も水没している道を突破する
DSC08047_R_2016082720132058b.jpg
最後の目標に向う
DSC08048_R_20160827201706cd7.jpg
崖の上にそそり立つ目標物
DSC08049_R_2016082720170730f.jpg
串山港湾監視所
DSC08050_R_201608272017082c1.jpg
ここから軍港に出入りする船を監視する目的で造られている
DSC08052_R_201608272017103dc.jpg
雨なので、昇るのは諦めた

呉 海軍工廠倉庫遺構

DSC07893_R_20160621204152ff1.jpg
 「アレイからすこじま」付近のレンガ倉庫群は、呉海軍工廠の前身である呉海軍造兵廠時代に建てられたものである。
空襲の被害により一部の建物が破壊されてしまったが、戦後は、国から購入した民間企業が修理し、倉庫として使用している。
この3連レンガ倉庫、元は両側の2棟であったのだが、空襲で破損していたこの2棟を修復する際に、ガレキと化したレンガを使用して正面に壁を作って3連の棟にした。
DSC07894_R_20160621204154b2e.jpg
左側は造兵廠弾丸庫として使用、終戦前は工廠電気部外業工場となっていた。
DSC07900_R_20160621204154359.jpg
右側は、造兵廠魚形水雷庫として使用されたが、後に工廠電気部製図工場として使われていたらしい
DSC07961_R_20160621204754f08.jpg
二階の窓はほとんど埋められている
DSC07963_R_20160621204756785.jpg
一階はサッシが入っているところもある
DSC07964_R_2016062120475864e.jpg
通気口を、無理やり埋めた跡
DSC07967_R_201606212055412a5.jpg
窓をレンガで埋めてるのは、戦時中の機銃掃射対策や破片除けだろうか、魚雷庫だし
ちなみに、魚雷積み込み用クレーンはこの前辺りにある
DSC07962_R_201606212047566ba.jpg
隣にも同じような煉瓦倉庫がある
DSC07965_R_20160621204759364.jpg
二階の窓がでかい
DSC07966_R_20160621205539e26.jpg
横の入り口の造りがいい、造兵廠予備艦隊兵器庫として使用、後に電気部事務所として使用された
DSC07948_R_20160622232121a01.jpg
更に隣にもそれらしき建物がある、大砲庫と水雷調整室
DSC07949_R_2016062223212398b.jpg
いい蔦の絡まり方をしている
DSC07950_R_20160622232123d47.jpg
この辺りを見ると、当時もののように見えるが、煉瓦らしく見えない
DSC07952_R_20160622232125ca7.jpg
しかし、何故かスポットを浴びない
DSC07953_R_20160622232126798.jpg
錆びて固まったような鍵がついていた
DSC07891_R_201606222345011df.jpg
煉瓦倉庫の並びに、煉瓦のイメージをパクったセブンがある
DSC07889_R_20160622234459f0d.jpg
その後ろにも、それらしい建物がある
DSC07888_R_201606222344580f5.jpg
のの向かいにある、現在も使用中の倉庫
DSC07887_R_2016062223445781c.jpg
電気部発電所の遺構である
DSC07875_R_201606222350130a2.jpg
坂道を上がっていくと
DSC07877_R.jpg
見えづらいが煉瓦の建物がある
DSC07878_R_20160622235015df4.jpg
工廠電気部の電気機械試験室の遺構
DSC07874_R_201606222350119bc.jpg
元、電気部仕上工場も元気に再利用されている
DSC07956_R_201606232231300e4.jpg
市街地方向に少し戻ると
DSC08054_R_201606232231318c4.jpg
なにやら煉瓦の建物が見えてきた
DSC08055_R_20160623223132132.jpg
海軍工廠造船部工場
DSC08056_R_20160623223134272.jpg
こちらの窓も全て埋められている
DSC08057_R_201606232231359c0.jpg
5棟ほどこのような煉瓦建築物が並んでいた




横浜にやっと帰って来た、やはり霞ヶ浦より港町が肌に馴染む
どうでも良いのだが、前回大阪の「風月」を記事にしたが、神奈川にも一軒だけ、しかも横浜に在る事が判明
早速食べ比べをしてきた
DSC_0610_R.jpg
やって来ました「風月」横浜店
DSC_0609_R.jpg
早速店内に入る
DSC_0613_R.jpg
程よく鉄板が熱くなるのを待つ、注文は定番のブタ玉
DSC_0616_R.jpg
つなぎ少な目、キャベツ多目の具は、混ぜるとキャベツが零れ落ちる
DSC_0617_R.jpg
盛大に投入、この時の音がたまらん
DSC_0620_R.jpg
鰹節投入
DSC_0624_R.jpg
零すことなく反転
DSC_0626_R.jpg
しばし蒸らす
DSC_0628_R.jpg
蒸らし終わったら反転して、マヨネーズ
DSC_0629_R.jpg
そしてソース
DSC_0630_R.jpg
綺麗に伸ばして
DSC_0631_R.jpg
出来上がり!
DSC_0632_R.jpg
おいしおす!!

SNS媒体(ライン等)やブログに投稿した画像を見せると、ソフトドリンクが1杯無料になる券をくれる
そんな広告が隠れるように書いてあった、sanaとのライン画像を見せたらほんまに無料になった
店内に10cmぐらいの大きさで表示してあるから、探してみて下さい(お得です!)