fc2ブログ

土浦海軍航空基地 (再訪2016)

DSC06584_R_20161112224829708.jpg
土浦海軍航空隊(つちうらかいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊・教育機関の一つ。予科練の練成を行ってきた霞ヶ浦海軍航空隊を初歩練習・実用練習部隊に改編させるため、予科練習部を独立移転させる形で発足した。太平洋戦争開戦とともに、全国各地に後発の予科練航空隊が林立したが、そのルーツともいえる教育部隊である。
DSC06940_R_2016111222483166f.jpg
予科練平和記念館(内部は撮影禁止)
DSC06944_R_20161112224832505.jpg
DSC06945_R_2016111222483370c.jpg
現在は陸上自衛隊土浦駐屯地及び、武器学校となっている
DSC06948_R_20161112224835a3b.jpg
以前は屋内にあった回天の実物大模型が、屋外に追い出されていた
DSC06947_R_20161112230852373.jpg
実際に見るとかなりでかい
DSC06949_R_20161112230853f73.jpg
これが付いてなければ、ほぼ魚雷のまま
DSC06951_R_20161112230854aaa.jpg
後ろから観ると魚雷にしか見えやん
DSC06955_R_20161112233436351.jpg
付近に当時の建物の一部と思われる、リベット止めの鉄骨が放置されていた
DSC06957_R_20161112233437bf0.jpg
この相当古そうなポンプ小屋も無関係ではなさそうだ
DSC07883_R_201611122341081ee.jpg
駐車場の奥には、ゼロ戦の格納庫が新設されていた
DSC07498_R_20161112234106834.jpg
零戦21型実物大模型
DSC07497_R_20161112234104033.jpg
知らない人が観れば、十分リアルに出来ている
DSC07499_R_20161112234107c9b.jpg
赤城のAが書かれている
IMG_1737_R.jpg
自衛隊基地のゲートをくぐる
IMG_1738_R.jpg
敷地内の一部を見学者に開放している
IMG_1741_R.jpg
予科練の碑
IMG_1747_R_20161113213825bba.jpg
予科練記念館
IMG_1748_R.jpg
こちらの内部は撮影可能だ
IMG_1749_R.jpg
音声ガイダンスなども無料で使える
IMG_1765_R.jpg
展示点数も結構あるので見ごたえはある
IMG_1770_R.jpg
ここから先は土浦駐屯地、見学コース外となるので一般人は入れない
DSC07615_R_20161113214903740.jpg
正門で手続きをする、現在は一般の見学は難しくなっている(基本無理)
DSC07617_R_20161113214905bc6.jpg
正門そばには旧式火砲が展示されている
DSC07627_R_20161113214905eff.jpg
「火砲館」旧軍の火砲を展示してある
DSC07628_R_20161113214907586.jpg
旧日本軍の三式中戦車
DSC07645_R_201611132157208f1.jpg
DSC07665_R_20161113215721dbb.jpg
医務科跡
DSC07676_R_201611132157220a5.jpg
自衛隊歴代戦闘車両がずらりと並んでいる(きりが無いから紹介しない)
DSC07751_R_201611132157250f6.jpg
号令台
DSC05638_R_20161113220918a52.jpg
公報資料館に寄ってみる
DSC05641_R_20161113220920468.jpg
小銃などの小火器の展示
DSC05896_R_2016111322092182e.jpg
土浦駐屯地の訓練風景
DSC05926_R_201611132209224bf.jpg
運が良いとこんなのが撮れるかも
DSC05967_R_20161113220923418.jpg
旧士官宿舎跡
DSC05972_R_20161113222723a3a.jpg
車両整備地区
DSC06006_R_20161113222725645.jpg
洗いたての74式戦車が干してあった
DSC07750_R_20161113215723106.jpg
さて、そろそろ帰ろう
スポンサーサイト



霞ヶ浦海軍航空隊基地(再訪その2)

DSC06583_R_20161111231539d24.jpg
この辺は戦後茨城農大等に使われているおかげで、遺構が結構残っている
DSC06508_R.jpg
ジオラマの左上辺りに貯水槽の跡があり、手前に慰霊塔が建てられている
DSC06478_R_20161111231542168.jpg
以前より、大分綺麗に整備されていた
DSC06481_R_20161111231544786.jpg
海軍航空殉職者慰霊の塔の由来
DSC06477_R_2016111123154196f.jpg
貯水槽跡、以前は丸く完全に残っていたが、道路の為に半分しか残っていない
DSC06484_R.jpg
DSC06488_R.jpg
DSC06494_R_20161111233851bbc.jpg
いろんな碑が集められている
DSC06502_R_2016111123385209f.jpg
道路を挟むと訓練用プールの跡が、埋められているが残っている
DSC06503_R_201611112338547a4.jpg
10年ぐらい前までは高飛び込み用の飛び込み台もあったが撤去された
DSC06876_R_20161111234456226.jpg
付近の大学施設には門柱がかなり残っている
DSC06877_R_2016111123445890b.jpg
左右の壁までしっかりと残っているのは珍しい
DSC06879_R_201611112344590b9.jpg
当時の構造が良くわかる
DSC06884_R_201611112345013bd.jpg
三ヶ所ほどこんな門柱が見て取れる所がある
DSC06836_R_201611121828545e9.jpg
茨城農大の構内に入ると、建物の基礎部分が点在している
DSC06837_R_2016111218285635d.jpg
皇太子殿下(昭和天皇)お手植えの松
DSC06889_R_201611121828567e9.jpg
茨城大学農学部入り口にある門柱
DSC06890_R_201611121828594a2.jpg
これは移設の可能性がある気がする
DSC06895_R_20161112185253c77.jpg
構内の方位盤
DSC06893_R_20161112185250b26.jpg
割れたりして、大分風化が進んでいる
DSC06892_R_20161112185248305.jpg
故郷を思う為に、大まかな秋田山形仙台などの都市名も見て取れる
DSC06896_R_20161112185254eea.jpg
近くには溶岩で作られた富士を模したらしい物もある
DSC06900_R_20161112185855e78.jpg
DSC06897_R_20161112185853d80.jpg
第一士官宿舎階段親柱
DSC06901_R_20161112185855c86.jpg
DSC06902_R_201611121858577bb.jpg
軍艦旗掲揚塔
DSC06905_R_201611121858580be.jpg
病院側のさくの前に、当時物の境界柵が残っていた
IMG_1491_R.jpg
海軍道路(現阿見坂にある土浦海軍航空隊基地への誘導路だった)フェンス下に注目
IMG_1490_R.jpg
海軍道路の境界を示す「海軍用地」の標石
IMG_1488_R.jpg
うっすらと標柱番号が掘ってある(漬け麺麺劉備の前)
IMG_1493_R.jpg
総合衣料さとうの駐車場
IMG_1492_R.jpg
道路ギリギリの所に
IMG_1494_R.jpg
海軍用地第二・・・・・がある
IMG_1773_R.jpg
かすみ公民館の入り口に
IMG_1774_R.jpg
当時の給水塔の様な物が立っているが詳細不明



2010年の四月頃の訪問記   霞ヶ浦海軍航空隊基地

霞ヶ浦海軍航空隊基地(再訪その1)

今年の夏は仕事の都合で茨城県の霞ヶ浦に勤務地が移動されていた。
京都に通うのがちょっと大変だったが何とかなるものだ、たかが往復で4時間増えただけの事。
せっかく茨城まで行ったので、かの震災の前に行ったきりだった茨城の戦跡をいくつか回ってきた。

DSC06523_R_20161106224337bc8.jpg
一夏過ごした霞ヶ浦の、陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地内にある
DSC06524_R_20161106224339fc4.jpg
公報センター内の展示模型(ジオラマ)なども参考に交え、紹介したい
DSC06533_R_20161106224340bb5.jpg
同基地内の一部が旧海軍航空隊基地の敷地だったので(飛行場地区)幾つかの遺構が展示されている
DSC06534_R_20161106224342aa9.jpg
DSC06535_R_20161106224343910.jpg
と、言ってもこの程度しか屋外には置いてない
DSC06588_R_201611062307316a6.jpg
展示用のジオラマ模型(格納庫が現存)
DSC06766_R_20161106230732bca.jpg
手直しはされているが、骨組みは当時のもの(基地内部撮影)
DSC07606_R_2016110623265133a.jpg
基地外周から見てみる
DSC07601_R_20130131220304_2016110623264970a.jpg
一部は民間会社に使用されている
DSC06582_R_20161106233207afc.jpg
飛行機が置いてある掩体壕が現存している(赤い紐は現在の自衛隊敷地境界線)
DSC06906_R_20161106234134fe3.jpg
これは民間のお宅の所有物になるので、許可無く立ち入りは出来ない
DSC06919_R_20161106234140ac2.jpg
訪問理由を述べ、キチンと対応すれば快く撮影を許可して下さる良いお宅でした
DSC06915_R_20161106234135ce2.jpg
DSC06916_R_20161106234136f74.jpg
DSC06917_R_2016110623413837c.jpg
以前は無かった案内看板が立っていた、お話を聞かせて頂いたところ、終戦後大陸から引き上げてきた所、住む所が無くなっていて、たまたま軍の引き払いであった掩体壕を家がわりに周りの土地と共に購入し畑を作ったそうだ、他にも同じ様な掩体壕があったが、全て破壊された。
家として使用していたこの掩体壕だけが生き残り、現存している
DSC06920_R_20161106235724651.jpg
現在は隣の住居に住んでいるが、物置として使用中
DSC06937_R_20161106235725aa1.jpg
許可を取って登ってみた、滑るし高いのでお勧めはしない(あくまで自己責任で迷惑をかけないように!)
DSC06580_R_2016110723020735d.jpg
中央辺りの白い倉庫が、落下傘倉庫である
DSC06829_R_20161107230201d56.jpg
(株)協和発酵工業の正門横に現存している
DSC06831_R_20161107230203bd7.jpg
現在も使用されているらしく、パイプなどが増設されている
DSC06832_R_20161107230205e2b.jpg
外観的には窓枠なども、ほぼ当時のままのようだ
DSC06830_R_20161107230202403.jpg
出来るだけ当時のままに、残しておいて欲しいものだ
DSC06579_R_20161110201117a57.jpg
中央格納庫(鉄骨レンガ製6棟中、5棟が現存)
DSC06861_R_201611102011182c7.jpg
(株)井関農機茨城センター内に有る
DSC06863_R_201611102011192c4.jpg
左奥がジオラマの赤い建物だろう
DSC06864_R_201611102011213ea.jpg
屋根の通気孔が特徴だ
DSC06866_R_201611102011234ec.jpg
周辺施設もかなり残っている
DSC06868_R_20161110203123117.jpg
当時から残る土塁、この奥にも建物がある
DSC06872_R_20161110203124384.jpg
ちょどなんか飛んで来た
DSC06875_R_20161110203126a8a.jpg
駐屯地の飛行場に降りるチヌークだ、でかいが実はかなり機動性が良く、隊員だけの時はかなりの角度で飛び回る
DSC06873_R_20161110203125390.jpg
落下傘格納庫が裏側から見えた
DSC06869_R_20161110204550f49.jpg
ここの左奥にも土塁に囲まれ、トンネルで出入りする火薬庫らしき物が上空写真では見えている
DSC06854_R_201611102052218bc.jpg
阿見町役場の前にある
DSC06859_R_2016111020522200a.jpg
阿見町立阿見小学校の校門も、霞ヶ浦海軍航空隊の門柱を移設して保存利用している物だ
DSC06851_R_20161110205218ab7.jpg
当時ここに鉄筋製の貯水塔及び貯水槽、機銃痕の残る建物もあったが、全て無くなっていた
DSC06853_R_2016111020522019e.jpg
残骸のみ
DSC07813_R_20161110210512205.jpg
当時は会社敷地内にこんな貯水塔が建っていた(5年ほど前の写真)
DSC06844_R_20161110212736129.jpg
県道34号線沿いには、慰霊碑が立っている
DSC06845_R_201611102127375ac.jpg
地下には謎施設がある
DSC06846_R_20161110212739766.jpg
これは民間有力者の個人防空壕なのかも知れない



2010年の四月頃の訪問記   霞ヶ浦海軍航空隊基地

京都 ASSEMBLAGES KAKIMOTO(アッサンブラージュ 垣本)

今回の写真はコンデジのダイヤルずれによるブレがひどいので、雰囲気だけ感じてください
IMG_2287_R.jpg
平安神宮の散策を終えた
IMG_2289_R.jpg
鴨川べりに等間隔で並ぶカップルの列が面白い
IMG_2290_R.jpg
改装が終わった京都文化博物館にやってきた
IMG_2291_R.jpg
以前も来たが、ちょっと奥を紹介しておきたい
IMG_2293_R.jpg
ガラス越しに見ると、学生の吹奏楽部のコンサートをやっていた
IMG_2295_R.jpg
吹き抜けのホールはコンサートや演劇などに貸し出している
IMG_2296_R.jpg
前田珈琲の奥に入って行くと
IMG_2298_R.jpg
「ろうじてんぽ」がある
IMG_2299_R.jpg
IMG_2297_R.jpg
館内は自分の目で見てみてください、無料です
IMG_2304_R.jpg
有名老舗旅館「俵屋旅館 」
IMG_2303_R.jpg
犬やらいの一種、「つばどめ」
IMG_2305_R.jpg
その向かいにある、同じく老舗旅館「柊屋」には「駒寄せ」がある
IMG_2310_R.jpg
御池通りの金ぴか鐘馗さんを見て行く、かなりレアだ
IMG_2313_R.jpg
さすが金箔屋さんだ!
IMG_2314_R.jpg
寺町通りを横切ると
IMG_2315_R.jpg
御池通りに紅葉が始まっている
IMG_2317_R.jpg
京都市役所庁舎
IMG_2318_R.jpg
木屋町通りの「割烹竹うち」
IMG_2319_R.jpg
「水心」の石柱
IMG_2320_R.jpg
めん坊、木屋町店
IMG_2321_R.jpg
こうゆうロージは、関東人にはちょっと入りずらい物なのだ、どうしても躊躇して仕舞いがちだ
IMG_2324_R.jpg
リッツカールトンホテルに寄ってみる
IMG_2326_R.jpg
軽く腹に入れて今回は退散する (ピエールエルメのマカロン美味し!)
IMG_2328_R.jpg
リッツカールトンホテルにも、犬やらいはあった
IMG_2331_R.jpg
御所からも程近いこのお店
IMG_2330_R.jpg
ASSEMBLAGES KAKIMOTO 
IMG_2332_R.jpg
食べログでチョコレート、ケーキ、カフェのジャンルと紹介されているが
DSC_0666_R.jpg
実はシェフ垣本氏の手掛けるディナーが、超絶品なのだ!
DSC_0669_R.jpg
予約のみ 対応してくれる(厳選素材の為)
DSC_0670_R.jpg
スパークリングをそれぞれ頂く
DSC_0681_R.jpg
「パティシエ」「ショコラティエ」「キュイジニエ」3つの顔を持つシェフが織りなす味と味の”組み合わせ”
DSC_0687_R.jpg
「見た目の美しさ」「素材の生きた香り」「料理人の気持ちの反映した美味と言う味」の”組み合わせ”と感じた

ちなみに以前にも記事中で書いたが、京都のお店の予約方法は、直接お店に出向いて口頭で行うのが普通である
電話での対応もしてくれるかも知れないが、それはお店に対して「失礼な行い」であり、京都では常識外なのである

関東人の言う京都の「一見さんお断り」なるものは、きちんとした出向いての予約や紹介者のいない訪問が原因かも?
お店は、予約時にお客の好み(食べられない物やアレルギー)なども知り、お料理を堪能してもらいたいと思っている

垣本シェフも、焼き加減や量の加減を常に気にかけてくれる、作って出すだけの関東風(全部ではないが)とは違うのだ
「サロン・ド・ロワイヤル」といえば、1935年創業の老舗ショコラティエとして有名。
味もさることながら、フランスの『王族たちのサロン』を思わせる、ラグジュアリーなイメージを醸し出しており、京都はもとより全国的に名店として名高いですが、ここでシェフ・パティシエ、アドバイザーをされていた垣本さんが開いたお店がここである。

sanaの部屋 京グルメ 【ASSEMBLAGES KAKIMOTO~Diner.~】でのみディナーのお料理が見れる
今の所食べろぐですら、昼の部の画像しか掲載されていないレア中のレアなのだ!

IMG_2334_R.jpg
大満足の感動と共に今回の京都の旅は終わった

京都 平安神宮

平安神宮は平安遷都1100年を記念して、明治28年に遷都のおや神様である第50代桓武天皇をご祭神として創建されました。
 当時、京都の衰退ぶりは目を覆うものがありました。幕末の戦乱で市街地は荒廃し、明治維新によって事実上首都が東京へ遷ったことは人々の心に大きな打撃を与えました。
 その状況下で京都を救ったのは、京都復興への市民の「情熱」と全国の人々の京都に対する「思い入れ」でした。数々の復興事業を展開し、教育、文化、産業、生活などすべての面において新しい京都が模索され、同時に古き良き京都の維持継承に力が注がれたのです。
 これらの熱意と一連の町おこし事業が見事に結実して、平安神宮が創建されました。
 千年以上も栄え続けた雅やかな京都を後世に伝えるために、京都復興にかけた多くの人々の遺志を後世に伝えるために、四海平安の祈りを込めて創建されたのです。
 その後、皇紀2600年にあたる昭和15年には、市民の懇意によって平安京有終の天皇、第121代孝明天皇のご神霊が合わせ祀られ、「日本文化のふるさと京都」のおや神様として広く崇敬を集めることとなりました。
(公式より転載)
keidaizu2014_R.jpg
(公式境内図)
今まで近くを通っても、何度かスルーして来た平安神宮だが、間近かまで来たので寄って見た
平安神宮は明治28年3月15日創設で、かなり歴史が浅いのだ、京都の人に言わせると「百年二百年なんて、昨日今日の事や」と言う考えが当たり前なのだ。

平安神宮の社殿は、桓武天皇いた当時の平安京の正庁、朝堂院が8分の5の規模で再現されている他、縮小再現版でもある
IMG_2226_R.jpg
広い参道は、観光客で賑わっている
IMG_2229_R.jpg
明治建築物らしい物があったが、なんら説明文もない
IMG_2232_R.jpg
信号を渡ると平安神宮に達する
IMG_2231_R.jpg
この鮮やかな朱塗りには魔除けの意味がある、古くから朱が魔除けの色として使用されている
IMG_2233_R.jpg
まずは手水舎で清める
IMG_2234_R.jpg
応天門(應天門)IMG_2236_R.jpg
上層の屋根にある扁額は、弘法大師空海が書いた物で、應」の一番上の点を書き忘れ、まだれをがんだれにしてしまった。空海は掲げられた額を降ろさずに筆を投げつけて書き直したといわれている、「弘法も筆の誤り」のことわざの所以である。
IMG_2237_R.jpg
應天門をくぐる
IMG_2240_R.jpg
広い空間の先に大極殿が見えてくる
IMG_2241_R.jpg
内部の手水舎にある、都の西を守護する白虎(びゃっこ)の像
IMG_2248_R.jpg
IMG_2249_R.jpg
白虎楼
IMG_2276_R.jpg
都の東を守護する蒼龍(せいりゅう)の像
IMG_2242_R.jpg
蒼龍楼
IMG_2245_R.jpg
古いお守りやお札を返納する古札納所
IMG_2250_R.jpg
「右近」の「近」は天皇の親衛隊である近衛兵の「近」を意味する、天皇の右側にいる近衛兵は右近の橘のあたりに控えてた
IMG_2251_R.jpg
右近の橘、大極殿は国家行事を行う正殿であり、ここに座る天皇から見て右側にある橘は「右近の橘」と名付けられた。
IMG_2252_R.jpg
平安時代初期には「桜」ではなく中国を代表する花の「梅」が植えられていたが、
IMG_2253_R.jpg
仁明天皇の時代に国花である「桜」に替わった
IMG_2255_R.jpg
IMG_2256_R.jpg
大極殿は朝堂院のメインの建築、当時の大極殿内部中央には天皇の座である高御座(たかみくら)がおかれていたそうだ
IMG_2257_R.jpg
平安時代の栄華を偲ぶのことのできる唯一の建物だそうだ
IMG_2260_R.jpg
遠めに見ると御神輿がある
IMG_2261_R.jpg
時代祭りの片付けをしているようだ
IMG_2266_R.jpg
中々解体のシーンなど見れる機会は無いのだが、良い所に巡り合ったようだ
IMG_2268_R.jpg
重要部分は白服の神社関係の人が手を下していたが、概ね職人さんがやっていた
IMG_2269_R.jpg
飾り鳥も専用の収納具があるようだ
IMG_2270_R.jpg
堂内は撮影禁止なので、こんな所からズームで撮っていたりする
IMG_2262_R.jpg
ずっと見ていたかったが、切が無いので引き上げる
IMG_2279_R.jpg
戻りしな、トイレの一文が気になった「舞妓体験処心のトイレ」とある、なんなんやろ?
IMG_2280_R.jpg
平安神宮を後にする
IMG_2283_R.jpg
慶流橋…明治28年に開催された第4回内国勧業博覧会会場の正門の橋として同年4月1日に開通した橋である
IMG_2282_R.jpg
欄干に何か書いてあった
IMG_2284_R.jpg
お堀端にほんのり色づき始めた紅葉が見えた
IMG_2286_R.jpg
犬やらいに囲まれた旧家も良い味わいだ
IMG_2288_R.jpg
大鳥居…昭和3年に昭和天皇の御大典が京都で行われたのを記念して、平安講社が同4年3月25日に造営したもの。現在では岡崎公園のランドマークとなっている日本有数の朱の大鳥居である。


京都 ロームシアター京都周辺

IMG_2169_R.jpg
岡崎に最近出来た「ロームシアター京都」に行って見た
IMG_2171_R.jpg
目的は2Fにある、「京都モダンテラス」
IMG_2176_R.jpg
モーニングから、夜のお酒まで楽しめる
IMG_2175_R.jpg
ずらりと並ぶと、壮観である
IMG_2177_R.jpg
水出し珈琲だろうか、水出し器にもいろいろある
IMG_2181_R.jpg
天井が高く、開放的な店内
IMG_2173_R.jpg
テラス席もあるが、屋内でモーニングをいただいた、漬物がめちゃ美味かった
IMG_2182_R.jpg
近くの岡崎公園にやって来た
IMG_2189_R.jpg
市電車両を改装した総合観光案内所「岡崎・市電コンシェルジュ」
IMG_2187_R.jpg
15年の12月に出来た、観光案内所
IMG_2188_R.jpg
京都検定1級合格者のボランティアガイドら2人が常駐し、周辺の見どころや最新の観光情報を紹介する。
IMG_2186_R.jpg
琵琶湖疏水による電力を用いた鉄道が敷設された市電ゆかりのエリアに、市電車両1860号を改装した
京都市電(きょうとしでん)は、京都市交通局が運営していた市電(路面電車)である。1895年に京都電気鉄道によって日本最初の一般営業用電気鉄道として開業され、1912年の市営路線開設、1918年の全面市営化を経た後、1978年9月30日限りで全廃された。
IMG_2190_R.jpg
京都府立図書館
IMG_2194_R.jpg
明治42年(1909)4月 「京都府立京都図書館」現岡崎の地にて蔵書5万冊で開館、実は レンガ造3階建である。
IMG_2195_R.jpg
紅葉の始まった参道を少し歩く
IMG_2199_R.jpg
でっかい鳥居だった
IMG_2200_R.jpg
京都市美術館で「生誕300年 若冲の京都 KYOTOの若冲」をやっているようだ
IMG_2203_R.jpg
京都市美術館にやって来た
IMG_2206_R.jpg
敗戦後駐留軍により接収されていたらしい
IMG_2202_R.jpg
天皇即位の礼を記念して計画が始まったため、当初は大礼記念京都美術館という名称であった、その為か大禮記念 という文字が消されている
IMG_2210_R.jpg
中に入ってみる
IMG_2215_R.jpg
天井の装飾が素晴らしい
IMG_2213_R.jpg
並ばずに入れる程度の混み方だった
IMG_2216_R.jpg
左の無料展示室、誰も居ない
IMG_2217_R.jpg
二階、タイル調の床が歴史を感じる
IMG_2223_R.jpg
軽く一回りしてきた
IMG_2225_R.jpg
遠くに比叡山が良く見える























京都を旅する様になって、大分月日が経って来た

一人ではとてもこんなに綺麗な景色や珍しいもの、美味しいものに巡り合えなかっただろう

一人で良いと思って生きて来た事もある

一人の方が気楽だと思い込んで来た

でも、二人になった

二人で見る景色や、食べるものは全く違う味わいを感じさせてくれる

二人の方が楽しいと思うようになった

二人で生きて行きたいと、いま真剣に思っている

同じ景色を見て、同じ空気を吸って、一緒に食事楽しみたいこれからも・・・・ずっと

京都 三十三間堂 (蓮華王院本堂)

三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)は京都府京都市東山区にある仏堂、建物の正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)。
この地には、もともと後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿があった。その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂、今に言う三十三間堂である。

上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて旧暦の長寛2年12月17日(西暦1165年1月30日)に完成したという。
創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、建長元年(1249年)の火災で焼失した。
文永3年(1266年)に本堂のみが再建されている、現在「三十三間堂」と称される堂がそれであり、当時は朱塗りの外装で、
内装も極彩色で飾られていたという
上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて旧暦の長寛2年12月17日(西暦1165年1月30日)に完成したという。
創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、建長元年(1249年)の火災で焼失した。

文永3年(1266年)に本堂のみが再建されている、現在「三十三間堂」と称される堂がそれであり、当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという

三十三間堂は、京都駅から徒歩15分ほどで行けるので、お手頃な物件である(個人差あり)
IMG_2114_R.jpg
秋空に京都タワーが良く映える
IMG_2115_R.jpg
京都駅0805スタートする
IMG_2116_R.jpg
塩小路通りで船鉾を見る
IMG_2118_R.jpg
鴨川通過、この辺の川辺は今一つ味気ない
IMG_2121_R.jpg
新しいお店が出来ていたが、開店時間前だ
IMG_2122_R.jpg
太閤塀を眺めながら歩く、豊臣秀吉が寄進した物で、瓦には豊臣家の家紋である「五七ノ桐」が見える
IMG_2123_R.jpg
IMG_2124_R.jpg
南大門から進入する
IMG_2127_R.jpg
内側から見た南大門
IMG_2125_R.jpg
カラフルな建物が見えてくる
IMG_2138_R.jpg
東大門からは入れない
IMG_2128_R.jpg
法住寺に寄って見る
IMG_2130_R.jpg
中華風の門をくぐっていく
IMG_2131_R.jpg
残念ながら土日祝は後白河天皇法住寺陵には入れない様なので手前だけ見ていく
IMG_2133_R.jpg
白洲の御庭
IMG_2134_R.jpg
IMG_2137_R.jpg
本来はこっちから入るんだろう、裏門から入ったようだ
IMG_2139_R.jpg
三十三間堂は、元々は法住寺殿内のお堂のひとつとして造営されたのだが、殆んど知られていないだろう
IMG_2140_R.jpg
養源院
IMG_2141_R.jpg
源光庵の「血天井」なる物が有名だが、血生臭いものは好きではない
IMG_2143_R.jpg
江戸時代の養源院は、一般の人は参拝できず、将軍家や大大名という、高貴な身分の人だけに参拝が許されていた、誰もが拝観できるようになったのは明治時代に入ってからのことである。
IMG_2142_R.jpg
この先が本堂なのだが、時間の関係で今回は行けない、この時点で0830
IMG_2144_R.jpg
ようやく目的地、三十三間堂に到着(北側からしか入場出来ないのが難点)、ちっちゃく京都タワーが見える
IMG_2145_R.jpg
入場料600円払って中に入る
IMG_2146_R.jpg
とりあえず本堂に入って御朱印もらったりしたのだが、当然の撮影禁止なので自粛
IMG_2147_R.jpg
三十三間堂は南北に長い、こっちは東側になる、平安時代に建立された三十三間堂であるが、驚く事に耐震構造を持っている
簡単に言えば、地震が起こればお堂が大きく揺れて衝撃を吸収する構造になっている
基礎地盤には「版築(はんちく)」を用い、堂内の屋台骨には、柱間を2本の梁でつなぐ「二重虹梁(にじゅうこうりょう)」を採用した、
柱や長押、梁には“揺れること”を前提にした設計が取り入れられている。
IMG_2148_R.jpg
遊歩道を歩くコース
IMG_2149_R.jpg
先に説明した法住寺の一部だった事の説明等
IMG_2150_R.jpg
池泉と回廊塀
IMG_2151_R.jpg
手水舎
IMG_2152_R.jpg
三十三間堂の中央部
IMG_2153_R.jpg
木造風神・雷神像、木造二十八部衆立像や、千体の千手観音立像がこの中に並んでいるのだが実は千一体いると言う。
インドでは「1000」という数字が無限を表すとされており、千体の観音様が「功徳が無限である」ことを示している。
三十三間堂には千手観音坐像を含めて全部で千一体の観音様がいる、「千」に「一」を加えた千一という数は、無限を超えたさらに先があり、無限に多大であるとの意味があり、「無量」の力を持つことを表現している。

更に観音様は千一体でもない、千手観音坐像の裏側に(西側廊下から見える)、ひっそりと千二体目の観音様がいるのだ。
他の観音様と違い、一体だけ室町時代に作られており、かつては各地に出張してご寄進を募るために用いられていたそうだ

ちなみに実は観音様が千体揃って見られることはほとんどないのである、常に修復や美術館への貸し出しが行われているため、すべて揃うのは特別イベントの時のみである、毎年約20体が修復にまわされて、代わりに不在札が立っている
千二体もいるから、名前札を置かないと元の位置が解らなくなるのだろう、もちろん全部に名前が付いているそうだ。
IMG_2154_R.jpg
東大門の内側
IMG_2155_R.jpg
鐘楼
IMG_2156_R.jpg
三十三間堂南側、吉川英治の『宮本武蔵』で、武蔵と吉岡伝七郎が決闘する場所として有名だが、実際の決闘場所は「京都洛外」としか伝えられておらず詳細は不明、単なる想像だろうと思われる
IMG_2157_R.jpg
いよいよ西側の廊下に回ってきた、有名な「通し矢」の射場である
IMG_2158_R.jpg
通し矢と言うと、隙間を通すみたいな印象もあったが、一昼夜を通して矢を放つ事が語源のようだ
種目は大きく分けて4種目あった
大矢数…一昼夜にどれだけの本数を射通したかを競った。距離は全堂・半堂・五十間・四十間(江戸)。
日矢数…日中にどれだけの本数を射通したかを競った。距離は全堂・半堂。
千射…千本中の通し矢数を競った。距離は全堂・半堂・五十間。江戸ではそれに加え六十・五十五・四十五・四十間。
百射…百本中の通し矢数を競った。距離は千射に同じ。
IMG_2159_R.jpg
最高記録者は、紀州藩 の和佐大八郎氏で、大矢数により総矢数13,053本、通し矢(当たった数)8,133本である
この記録は現在も「天下一」の称号と共に抜かれず残っている
余談だが、この人は射る度に少しずつ前に進んだというのが、目撃されているそうだ・・・・
IMG_2162_R.jpg
柱に鉄板が巻いてあるのが見えるだろうか、これは大量の射損じた矢があたる位置であったため、補強として徳川家光が作らせたものだそうだ
IMG_2163_R.jpg
ちょっとズームしてみたら、矢が一本刺さったままだった、疲れて来ると軌道が山なりになって天井に刺さるのだろう
IMG_2164_R.jpg
通し矢の基本姿勢は座った状態で少し上に向かって射る、立ったまま射ると、天井に当たって遠くまで飛ばないためだ
IMG_2165_R.jpg
通し矢の会場は京都蓮華王院(三十三間堂)だけではなく、江戸三十三間堂(深川)にもあったが現在は焼失
東大寺大仏殿西回廊でも少々距離は短いが、競技が行われたそうだ
IMG_2161_R.jpg
久勢稲荷大明神
IMG_2166_R.jpg
特に説明の無い石碑
IMG_2167_R.jpg
「さんじゅうさんげんどう」と読むのは本来は間違いらしい、尺貫法の「間(けん)」から名前が付けられているという間違った俗説が広まり、お堂の全長が「33間(約60m)」だと誤解されることも多いが、実際は尺貫法とは関係なく、千手観音像をおまつりしている場所の柱間が33間(ま)であるところからその名前がついたようだ。(いまさら変えられやん!)
IMG_2168_R.jpg
拝観が終わって0845退門、京都駅まで余裕で走って戻れる時間だ、新幹線の時間が余裕あれば、行ってみるといい

愛する恐ろしい京都 (街角文化編Ⅱ)

関西圏と関東圏では、当然の事ながら言葉(関西弁、関東弁)も違う、風習も違う
東男yakumoが、京都において困った事、感じた事、感心した事などを、横浜人目線で書いてみる
始めに断って置くが、京都を卑下する、下に見るなどと戯けた意味合いではない、ただ感じた違いを
京女sanaの監修の元に、ちょっと綴ってみたくなったのだ。
なお、京都市全体では無く、概ね洛中(京都中心地)の限られた地域においての比較である
なんせ洛中以外の外へ、あまり出た事が無いので、紹介しようも無いのである・・・(中途半端ですいません)


鐘馗さん (ちっさいおじさん)

日本では、江戸時代末(19世紀)ごろから関東で鍾馗を五月人形にしたり、近畿で魔除けとして鍾馗像を屋根に置く風習が見られるようになった。

京都市内の民家(京町家)など近畿~中部地方では、現在でも大屋根や小屋根の軒先に10~20cm大の瓦製の鍾馗の人形が置いてあるのを見かけることができる、これは、昔京都三条の薬屋が立派な鬼瓦を葺いたところ向かいの家の住人が突如原因不明の病に倒れ、これを薬屋の鬼瓦に跳ね返った悪いものが向かいの家に入ったのが原因と考え、鬼より強い鍾馗を作らせて魔除けに据えたところ住人の病が完治したのが謂れとされる。
先日ぶらタモリでも、ちっさいおじさんと紹介されていたので、見た人も多いだろう。
以前記事にしたので、細かくははぶく
1460892451308_R_20160520214832eee_2016101717072806c.jpg
御池通り辺りにある金ぴか鐘馗さん 、神宮道付近の金箔屋さんにもあるようだ
DSC03945_R_20160520171228fea_20161017171810747.jpg
屋根瓦と同じ素材なので、グレー系統がオーソドックスである
116_R_20160520183231766_20161017171810bf4.jpg
本来は受注生産で同じ物は無いのだが、そこは商売!同一品も存在するようだ
073_R_20160520180753a7a_20161017171808ed7.jpg
近年は型のプレス加工で、同じ物が出回っている

辻地蔵(つじじぞう)

辻地蔵とは何も京都限定の物ではないのだが、この地では色濃く残っているのだ
これは道祖神(どうそしん、どうそじん)と関係しているようだ、道祖神は、自然の石や石像・石碑で、いわば道ばたの神様である。
それは、民間の信仰の対象として多く安置されてきた。
この神様と仏教の世界の地蔵菩薩が結びついたために、いたるところに広まっていったのである。
歴史のある京都には古くからの辻地蔵が残っているが、関東など数百年の歴史しか無い土地ではあまり見かけない
横浜では長津田辺りに行けば、残っているらしい。

現在道端で見かけるのは、お地蔵さんのよだれかけに見て取れる、子供の無事な成長を願う物が多く
交通事故の慰霊となる物、とげ抜き地蔵、子安地蔵、子育て地蔵、身代わり地蔵、しばり地蔵、しばられ地蔵、水子地蔵等
かなりの種類があるがまとめて「地蔵菩薩」となる

近畿地方には、京都には、この辻地蔵をお祭りする、地蔵盆なる物がある、期間としては、当日の前日の宵縁日(旧暦7月23日)を中心とした3日間を指す、旧暦7月24日以外の地蔵菩薩の縁日の24日は、地蔵会(じぞうえ)、地蔵祭と呼ばれるが、旧暦7月24日については盂蘭盆(お盆)の時期に近く、それにちなんで地蔵盆と呼ばれるようになった。
DSC00382_R_201610171810375b6.jpg
これがyakumoが初めて認識した辻地蔵である
DSC01370_R_20161017181039334.jpg
何故かほぼ全ての辻地蔵が、施錠されているか、鉄柵で囲まれている
IMG_0419_R_201610171810418a4.jpg
新興のマンションなどが出来ても、地域の住民の理解でほぼ同じ場所に設置されている
IMG_0420_R_2016101718104399d.jpg
大部分の物は、土台が石造りで卍が描かれている。
083_R_201610171822088b0.jpg
辻地蔵はそこら中にある、場所によっては1ブロックに数ヶ所設置されている所もある、それだけ地域の人に愛されているのだ

関東の地蔵尊と言えば、通行人には見向きもされないどころか、目を背けられる部分もあるのが現状である
設置場所も移動され、高架下などに集合化されているのを良く見かける。
京都では地域ぐるみで愛されている、朝晩の通過時にもお参りとまでは行かなくても、会釈、目礼などは当たり前の礼儀だそうだ(時間のある人は写真の様にお参りをしている)、良く管理され、汚く汚れたもの等は皆無と言える。


粽(ちまき)

一言に「ちまき」と言うと、中華のチマキを想像する人も居るかも知れないが、ここで言う「ちまき」は和菓子に分類される物だ
さらに正確に言えば、その形をとった厄除けのお飾りの事である、もちろん食べられない!
IMG_1190_R_2016102023403594c.jpg

ちまきの由来
昔、須佐之男命(スサノオノミコト)が宿を探していたところ、弟の巨旦将来は、豊かな生活をしていたのにそれを断ったが、蘇民将来という兄は、自らの暮らしが貧しかったにもかかわらず宿を提供し、手厚くもてなした。
それに感動した須佐之男命は、蘇民将来に、「この先、疫病や災いがあっても、お前の子孫であれば守ってやろう。子孫だという目印に、この芽(ちがや)の輪をつけておきなさい」と言った。
「茅で輪を作って、腰につけていれば病気にかからない」との話もある。
それ以降、蘇民将来の一族は、疫病や災難を除け、代々栄えていったとのこと、 この「目印の芽の輪」が、現在のちまきのことで、現代に広く広まっている。
茅(ちがや)という植物を束ねて巻いた物、これが茅巻…ちまき…粽(ちまき)となって行ったそうだ。
IMG_2322_R.jpg
これが芽の輪なのだが、なぜか殆んどのちまきに芽の輪は付いていない
1469613513905_R[1]
八坂神社などでも見かけた人は多いだろう、芽の輪くぐり

また、ちまきには、「蘇民将来子孫也」と書かれた紙(お札)を付ける、 私は蘇民将来の子孫だと言う意味である。
DSC00564_R_20161020234034132.jpg

ちまきは祇園祭の時に一般に販売される、各山鉾にそれぞれのちまきが用意されているので、山鉾のそばの保存会会場か、
八坂神社で購入できる、ちなみに本来は購入ではなく、「ちまきを受ける」と言うのが正式ななのだ。

時期は山鉾を建て始める頃から山鉾巡航が終わるまでの間となる。
しかし、すべて手造りなので量産が効かない、よって無くなり次第終了となる、人気の鉾ならなおさらだ!

ちまきは基本、一年間で新しい物に交換するのが普通だ、祇園祭の時だから忘れる事もないだろう
一年間玄関で家族を護ってくれたちまきの返納方法(ゴミに出したらあかんよ!)も決まっている
購入した各山鉾に返納するか、八坂神社に納めるのが一般的だが、観光で来た人などはどうするか?
地元の神社でも返納は可能だそうだ(場合により有料)、ただし、お寺ではなく、神社に帰すのが当たり前なのだ。
お寺は仏様、神社は神様を祀っているので、管轄違いと思えば良いだろう
DSC00368_R_20161020234033504.jpg
この様に人のくぐる所や門など、人目の付く所に飾る
210_R_2016102423202399c.jpg
大き目の神社なら納札所に入れるだけ、無ければ社務所に頼めば多分大丈夫
142_R_2016102423202441c.jpg
山鉾の保存会会場でも返納を受け付けている
136_R_20161024232021bc5.jpg
また、ちまきを買うと鉾に乗る事が出来る(並ぶけど)が、一部女人禁制の鉾があるので注意。

消火バケツ

DSC01239_R_20161030191013a8c.jpg
木造建築の多い街京都では、火災がもっとも怖いのだ!
重要文化財などは元より、町家の密集した地域で一度出火したら、延焼は免れない
しかも道幅が狭い為、大型の消防車が入れない路地などが非常に多いのだ。
先ごろの先斗町の火事をTVなどで見て、記憶にある人もいると思うが、ほんまにお隣と密着している建物が殆んどだ
だから自分の家が燃えない様にするのは普段から当たり前、隣に被害を及ばさない為の気遣いが最も重要に考えられている

天明の大火(京都大火)などで、当時の京都市街の8割以上が灰燼に帰した歴史もある
IMG_1923_R_20161030191018acf.jpg
重要文化財などはもちろんの事
1476615124822_R_201610301910151a7.jpg
街中を歩くと普通の民家の玄関先にバケツがあるのをよく見かける
1476615145529_R_20161030191015d45.jpg
これらは玄関先の掃除をする為ではなく、あくまでも防火用として置かれているのだ
IMG_1887_R_201610301910179ec.jpg
新しい建物の多い所でも、消火器を良く見かける
DSC03665_R_20161030230706465.jpg
先に述べた先斗町では、火を使う飲食店街なのだが、基本的に酔っ払いが多く尚且つ狭いので足元にバケツなど置けない
DSC03697_R_20161030230708cec.jpg
ロージや図子の一部に消火器が少しある程度だった、これも初期消火の遅れの原因だろう
7月5日の記事を見ると
京都市消防局は消防車約20台を出動させ、消火活動にあたっているが、現場店舗が細い路地に面していることから、消防車が近づけず、消火活動は難航している。消防局は、西に約80メートル離れた木屋町通に消防車を止めるなどして消火活動を続けている。
とあるように、消火活動もままならない事もあるのだ。

観光で歩く道すがら、こんな所に目をやって見るのもいいんじゃないかな?
ただ目的地(観光地)に行くだけでは勿体無い街だと思う、通り過ぎる街中にこそ良い物はいっぱいある!