以前にも何度か記事にした、霞ヶ浦海軍航空隊だが、今回、井関農機茨城センターF様より
当ブログにお声がけをいただき、社内に残された中央格納庫の遺構を見学させていただく事が出来た。
知らなかったのだが、こちらの遺構に管しては、現在事前申請が有れば会社の都合が付けば、平日及び
休日でも見学が可能になっているそうだ。
また、あみ観光ボランティアガイドさんによる、周辺戦跡ガイドも事前に頼めば可能である。
こちらは地元ならではのネットワークで、本では判い所まで案内してくれる。
井関農機様の資料より抜粋
当センターの敷地面積は、91,518平方メートル(27,733坪)、建物面積19,662平方メートル(約5,860坪)です。かつては霞ヶ浦海軍航空隊の有していた土地にあたり、構内には格納庫として使用されていた建物が現存しています。
霞ヶ浦海軍航空隊
大正11年大日本帝国海軍で3番目に編成された航空部隊です。飛行訓練の目的で霞ヶ浦を埋め立て、大正10年7月に霞ヶ浦飛行場が完成しました。後に、海軍の要請で来日したセンピル教育団の講習を受け、霞ヶ浦海軍航空隊が開隊しました。そうして、横須賀にあった飛行予科練習部を移転(昭和14年)させ、それまでになかった陸上・水上両揃いの予科練として全国の訓練生を担う役割を果たしていました。終戦(昭和20年)に至るまで10代の少年たちが基礎訓練を受け、戦地に赴くということが繰り返され、特別攻撃隊(特攻隊)として出撃した隊員もいました。
中央格納庫跡
大正期末中央格納庫は、霞ヶ浦飛行場の中央に位置していたとみられる現在の場所(当敷地内)に建設されました。鉄骨で赤レンガ造りの平屋が6棟建てられ、飛行機の格納と整備が実施されました。1棟は戦後焼失したようで現存していないため、当センターで現存しているのは5棟です。
第1格納庫から第5格納庫は400坪(約1,320㎡)、第6格納庫は500坪(約1,650㎡)の敷地面積がありました。(建物の呼称がどの並びで割り当てられているかはまだ正確にはわかっておりません)
鉄骨は全てリベット打ちという接合法で金属板が固定されています。側壁は埼玉県深谷市の製造所つくられた赤レンガを使用しています。
昭和7年の記録によると、第1格納庫には三式陸上練習機14機、第2・3・4格納庫には一〇式艦上偵察機14機、第5格納庫には十三式艦上攻撃機4機と三式陸上練習機8機をそれぞれ収容していたようです。また、第6格納庫は格納庫群の真ん中に配置して発動機修理工場や金属加工工場として使用されていました。
戦闘指揮所跡
当敷地内の西側と東側に指揮所が二か所建造されています。2階建ての屋上も使用可能な構造で、昭和5年から8年頃に建てられたものとみられます。当時は飛行機の発着をコントロールしていたようで、屋上から誘導員が手旗信号で離着陸を管理していました。
昭和天皇行幸記念碑
昭和17年7月13日に茨城県下で行われた陸海軍統合練習時、昭和天皇が謁見時を記念して石碑が建立されております。
石碑は直立ではなく、斜めに寝かした状態の姿になっています。これは、飛行場の中に建立したゆえ、飛行の障害とならぬよう配慮したものと考えられます。
火薬庫跡・弾道テスト場跡
土塁のようなものが東側に2つあります。これは、戦後この敷地を当社が使用する以前に入っていた会社が銃を製造していたため、その過程で使用する火薬などを置く場所にしていたものです。
真ん中がすっぽりと空いていて土が回りに盛ってあるのは、火事になったときの燃え広がりを防ぐため、中央に炎が集まるように工夫された構造だと考えられます。
また、製造した銃の試し打ちをするのに使用していた、ブロック塀で囲まれた弾道テスト場もそのまま残されています。

予約時間が1000なので、7時ごろにのんびりと出かける

当日の天気はイマイチ、午前中だけでも持って欲しい

一時間早めに到着したので知ってる遺構を少し見て行く

海軍用地地帯標は、この時点ではこの2本しか見つかっていない

予科練平和記念館にやって来た

復刻した零戦レプリカ

土浦駐屯地の外縁にある遺構を見てみる

煙突の様な突起物が出ている土盛り

第一〇〇油庫(印刷が荒くて読み取れない)

第二〇〇油庫

弾薬庫入り口増改造を受け、素の形ではない

上図右上の部分だ、弾薬庫は角部分

現在のグーグル航空写真(弾薬庫は全く変っている)

真っ直ぐ伸びる射撃場

現在は整地され、基地内外縁道路になっているようだ

井関農機茨城センターへやってきた

まず通されたのが、2つ有る戦闘指揮所の遺構である一つ、会議室などに現在はなっている

魅力的な建物も見えてくる

まずは簡単な戦後の経緯を教わる、米軍摂取後、企業として井関農機は三社目の用地使用となるそうだ

②が現在いる場所

現在は屋根を繋ぎ、棟続きの建物になっている

当時はこの様に独立していた

リベット止めの当時の階段(手すりは後ずけ)を登る

格納庫の屋根は葺きなおしているようだ

コンクリート部分はオリジナルだが、溶接の手すりは違うだろう、床面には防水シートが張られている

庇を支える飾金具はオリジナル

内装は変ってしまっているが、部分的に元の構造が見える

外部に出て、格納庫周りを歩く

部分的にオリジナルか不明な扉がついている、左右の煉瓦の幅からみて違うと思う

最近のトラクターは、カッコイイと思う

壁に高圧碍子が飛び出している、メーカーを見たかったが、あまり外れるのは止めておいた

ここが格納庫の元々の飛行機出入り口、色違いの煉瓦部分は戦後埋めてしまった物だ
ちなみに上の飾り部分はイメージを残す為に、巨費を投じて復刻したものだ

この部分だと思われる

1922年の余裕のある時代に出来た飛行場なので、煉瓦の飾りもいい出来だ

こちらの事務所で、説明を受けながらあみ観光ボランティアガイドさんと合流する

内装は変っているが、この建物も遺構である

火事で消失した部分や、増設工事の際に出てきた煉瓦の刻印をみる



こんな刻印が刻まれているらしい

戦後の東洋精機株式会社(小銃製作会社)時代の配置図(左)と終戦返還後の茨城県農業開拓建設所時代の配置図(右)

当時の正門の写真

現在は移設され、阿見小学校の校門となっている

もう一つの戦闘指揮所に向う

こちらは現在使用していない為、外階段は危険な為使用できない

飾り支柱など含み、構造は先の物と全く同じ設計の様だ

一階部分、内装は殆んど当時のまま見る事が出来る

二階は特に判りやすい

この屋上から手旗信号などで、航空機の離発着指示を出していたようだ

現代と違って、窓が細かく区切られている

壁の角に開いている穴、当時はここに時計が取り付けてあった写真がある

天皇行幸記念碑、航空機離発着の邪魔にならない様に、低く作ってある

碑文

戦闘指揮所から撮った写真、この緑の垣根の間を通行したそうだ

現在は枝が成長したせいか、いささか狭そうだ
後半に続く