舞鶴 第三火薬廠 その1(ロシア病院)

貧乏人の朝は、キャンプ場で始まる

キャンプ場A・B棟は第三火薬廠の遺構である

火薬成型工場、表側は完全に原型を留めていないが、裏側は壊れているが当時の物だ

庇部分が破壊されている

二階は無く通風の為の窓だったようだ

内部は四角い独立した部屋が並んでいる

カブ1m程は、防湿用のコールタールが塗ってある

火薬を吸い込まない為に、換気が必要だった

耐震問題で、庇を撤去したのだろうか?元の画像が何処にも見つからない

2棟の間ぐらいの山側に

消火栓がある

確かに海軍のものだ

裏手の藪地に向かった水路の様な物がいくつか見受けられる

一つの建物に見えるが

間に空間が有り、完全に別棟である(要するに4棟残っている事になる)

表側と裏側の一部は、半コテージ風になっていて遺構らしさは無い

当時の土塁と思われるが資料が無い

舞鶴工業高等 専門学校の裏手にある隧道式火薬庫

完全に封鎖されていて、出口は農協敷地になるので見ていない

電気配線の跡

内側から鎖で閉じられていて、ビクともしなかった

金庫の様なダイヤル錠だったのが驚いた(米軍摂取時かも知れないが)

公園から高専前の道に繋がる橋は、無くなっていた

川沿いに歩き、この辺から入れば遺構があると思うのだが

ここの橋も落とされている

生きている橋を渡って第三火薬廠 砲炸薬成形工場 煩谷(ほこだに)22工場(別名ロシア病院)
戦後、廃墟となったこの建物は、捕虜のロシア人の解剖実験をしてただの根拠の無い噂が広まり、ロシア病院と呼ばれた。

入り口にぽつんと消火栓がある

キャンプ場のとは違うタイプの消火栓だ

煉瓦博物館の前にあった物と同じタイプだが、上の蓋等が微妙に違う

入り口にはそれぞれ手洗い場が完備されている

付近には、換気用ダクトが無造作に放棄されている

キャンプ場と同じ様に、表裏で二棟が背中合わせになっている

入り口付近の部屋は、昭和の落書きが残っている

分厚い防湿用コールタールが壁面下部に塗られていたが、最早剥がれ落ちている

一部屋がかなり大きい

窓の外には、付属施設がある

本体は、大きな部屋が2つだけ

足元には溝とコンクリート台座

天井を見上げると、滑車でも着いていたのだろうか?

天井の梁もシンプル

70年経っても、意外に木材が残っている事に驚くが、米軍に摂取されていたせいだろう

奥にももう一棟ある、右は付属施設

こちらは真四角な部屋が、複数並んでいる

向かいの付属施設には、濡れずに行き来出来るように、屋根が繋がっていたようだ

裏側の間口は狭い

入ってすぐにクランクして奥に進む

吹き抜けの部屋になっている

横の壁に、不思議な穴が開いている。戦後調査なのか、かなり壁は分厚い事が解る

表から見る、付属施設には3つの部屋が有った

本館に戻って来た

外から見ると、本館の屋根の形が面白い

剥がれた庇の中に、木の壁が見える。この辺は木造にモルタルを塗っているだけのようだ

裏側にも手洗い場がある、火薬で手が荒れてしまってここでの作業は過酷だったらしい

建物の間の通路

裏側の建物

小さな部屋が並んでいる

3m無いぐらいだろうか

二階は無く、吹き抜け

裏手はコンクリート壁に囲まれ、あちこちに防火用水と思われる水溜りがたくさんある

壁にいろいろな器具が取り付けられていたのだろう

付属施設、山側なので風化が少ないようだ

窓は横開きではなく、下から紐で開け閉めするタイプ

機械台座がそれぞれある

サイズや形はマチマチだ

付属施設の裏側から本館側に出た













30分程で見て周ったロシア病院、思いの外広かった。
外観から二階建てだと思っていたが、全て平屋だった。
思ったより落書きも無く、比較的綺麗な廃墟だった。
廃墟の観かたは人それぞれ
自分は戦跡としてみて周った
うちのメンバーを連れて行ったら、どんな風に撮るだろう?
秋から冬になる頃にでも、また行けたらいいな!
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