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浦賀船渠西複合陣地(仮)サードアタック

全く資料が見当たらない地下壕なのだが、浦賀船渠(住友造船)の社内史に東浦賀等、いくつかの疎開地下工場を作ったとある。
大型の機械台座が多い事、直近に船渠壕や狙撃陣地がある事から、浦賀船渠関連の壕と位置付けたい。
今回は正規メンバーの他に、ゲスト2人を招いての探索となる。
中でも久しぶりの参加となるキヘイ氏の参加が大きい!
彼の一言で、3日でメンバーを招集して企画された即席パーティー6名での探索だ。
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早速壕口へ向かうメンバー
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今回は右回りだけ指示して、殿を務めて好きに周ってもらう
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ほとんどの人が初見となるので、工場、倉庫ブロックから先に周る方が楽しめる
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それぞれに探索を始めるが、広すぎるので基本的に集団行動する
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ぞろぞろと行進していく
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中央部は工場エリアになっているので、台座が多い
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発電機室と見られる四角い部屋
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四角い天井は、工場系の特徴
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この壕の崩落は凄まじく、現在も進んでいる
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分岐に次ぐ分岐で、細かい位置の特定は難しい
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水槽はやはり人気だ
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閉鎖ブロックまで来た
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壕内の謎の閉鎖ブロック



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元のコースに戻る
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この辺りには丁寧に封鎖された壕口が多い、恐らく工事のズリ出し様に多くの開口部を設け、工事終了時に補強及び防備のために埋めたのだろう。
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残留物を漁るメンバー
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奥の方は倉庫ブロックのようで、30m程の行き止まりの部屋が10個近くある
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倉庫ブロックでは、残留物探しに熱中する
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建物の基礎が残る、木造の小屋が建っていたのだろう
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ガスマスクの細かい部品も発掘された
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工場ブロックに戻って来た
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工場区はコンクリートが萌える
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最後の陣地系ブロックに移動
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最初の銃眼は素掘り



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中身の残るアンプル、中身は何だろう?
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大日本ビール
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二つ目の狙撃口への入り口
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二つ目の銃眼はコンクリート製



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三つ目の狙撃口入り口
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三つ目の銃眼は素掘り、銃座付き
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横にある弾丸置き場



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向かいにある四つ目の狙撃口
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入り口左に曲がってすぐにある
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非常に変わった銃眼で、外部では無く通路内に向かっている防衛用で、侵入した敵に向かって射撃する
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銃眼の下の位置が、外側の通路の床面になる半地下式
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こんな感じで外側からは判り難い
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意外と銃眼は大きい
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楽に人が出入りできる
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五つ目の狙撃口入り口
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ここもコンクリートの防壁を持つ銃眼だが、外部から塞がっている



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さて、脱出しよう。既に4時間壕内を回っている。
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長崎薬専防空壕跡 大村海軍航空隊掩体壕 第二一海軍航空廠本部庁舎跡地及び防空壕

長崎市内で、簡単に観れる遺構を飛行機の出発間際に回って来た
遠征において、飛行機の時間は遅く設定出来ても、レンタカーの返却時間は18時~18時30分という不文律がある
ガソリン給油、返却地への行程を考えると、30分ほどは早く行かなければならない。
自分の車では無い事のデメリットだ。
最後のギリギリまで行ける所だけ回って来たのだ
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長崎医科大学の裏山
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ここは当時の射撃場だったらしい
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今は壕口も埋められ、慰霊碑だけが建っている
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説明板
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射的場 防空壕跡 平和と彫ってある
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かすかに幾つかの壕口の跡が伺える
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何故か隣にある中国人原爆犠牲者追悼碑


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大村市にある下原口公園
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ワシントン海軍軍縮条約の発効とともに、海軍は補助戦備の大転換を画策し、航空隊の増強を狙った。従来の航空教育は横須賀海軍航空隊が担っていたが、大増強のためにはさらなる飛行場と航空隊が必要であった。そこで、東日本と西日本に大規模な航空基地を設置し、基礎訓練から実用機慣熟訓練までを一貫して行う教育航空隊を設置することとした。東日本に設置したのが霞ヶ浦海軍航空隊、西日本が大村空である。以前より航空船訓練や暫定飛行場として使用実績がある霞ヶ浦とは違い、大村は一からのスタートとなった。佐世保鎮守府に近い平坦地で、陸軍歩兵第46連隊の衛戍地として軍への協力が取り付けやすい長崎県東彼杵郡大村町(現・大村市)の海岸に滑走路を設置し、横空・佐空・霞空に続く第五の海軍航空隊として開かれた。大陸に最も近い航空基地として、日華事変の際には木更津海軍航空隊の渡洋爆撃基地として機能し、また、手狭な佐世保飛行場に代わって佐世保海軍航空隊戦闘機隊が駐留していた。(ウイキペディア)
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掩体壕の背側面は、遊具としての第二の人生?を歩んでいたが、昨今の公園事情により封鎖されている
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掩体壕正面
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斜めから見ると、庇のある陸軍式はともかく、このような段付きの前面部は珍しい
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内部は長らくこうえんの倉庫として使われていたらしいが、整備されている
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背面部はかなり雑なコンクリートの塗り方で、型も使われていない
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戦跡の平和利用としてはいいと思うが、出来ればそっとしておいて欲しかった


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とあるスポーツ広場の隣に
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異彩を放つ小山がある
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本部庁舎は跡形もないが、防空壕は残っている
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平地で山の無い飛行場は、こんな感じの防空壕にならざるを得ない
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最近出来たばかりの様な碑が建っている
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左右に同じような爆風除け付きの入り口がある
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通路は貫通しているが、内部への入り口はブロック閉鎖されている
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上部のコンクリートも分厚く盛られている
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天井にはヒューム管が2本出ている
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反対側の出入口
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配電盤のケースが残っている
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左側の裾は、崩れ止めか、近代コンクリートの補強が入っている
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かなり雑な乗っけただけの補強と言うか土留めかな?
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こちらもそうだが、ガレキぐらい片付けてもいいと思うのだが
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にゃんこに雨宿りぐらいさせてやってくれ
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こちらサイドは全体的にコンクリートの土留めが入っている
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これにて長崎の戦跡訪問を終える

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レンタカーを返却し長崎空港に着くと、既にほとんどの店が閉まっている
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ほぼ唯一開いていた空港レストランで晩飯を食う
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長崎空港特製ハヤシライス
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驚いたのはこちらのミルクセーキ。長崎のミルクセーキは食べ物だそうだ(結構美味い)
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ほとんど貸し切り状態の機内
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長崎の夜景を見ながら飛び立つ
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今度はいつ来れる事やら
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東京に帰って来ると、光の密度が違う
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見慣れた建造物が安心する
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同時に旅の終わりが物さみしい
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明日からの仕事を考えると、また長崎に逃げたくなる

佐世保海軍警備隊 皆同高角砲台

今富城跡の高台に築かれた砲台跡。昭和17年(1942)から昭和20年(1945)にかけて、海軍の高射砲陣地として利用された。
装備は40口径3年式8cm高角砲4門、測距儀1、110cm探照灯1、発電機1があったらしい
現状は荒れ果てた野山、竹林となっていて、夏場の探索もあり踏破は出来ていない。
しかし、道路からすぐと言う立地なので、冬場ならかなりの遺構を確認できるだろう。
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城址裏手のアンテナ基地から登る(一応目の前の畑で作業している人に理を入れる)
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即座に通気口が見つかる
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蓋を被せた様に、側面に開口しているタイプだ
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足元の斜面にコンクリートの壕口を発見
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余裕のある17年3月と言う事もあり、綺麗な造りをしている
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内部も痛みもなく、いい造りの完全コンクリート製
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弾薬庫入り口、天井が少し高くなる
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弾薬庫内部
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通気孔は斜めカットではなく、直角に四角い
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通路は斜めにカットされたU字型で、中央に弾薬庫となる
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そのまま抜けると、道路付近に出てしまう利便性の良さ
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外から見たもう一方の出入口
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上をガサゴソすると、肉眼では判るのだが砲座らしき円形の窪みがある
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二か所ははっきりと判るが、後は微妙だ
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砲座の近くにコンクリートのマスがある
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即応弾薬庫か、砲員待避所だろうか?
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竹林を更に登ると
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コンクリートの囲いが見える
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観測所(指揮所?)だろうか?
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出入口らしい切り欠き
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付近にある整地され、土塁に囲まれた部分
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この石垣は、城跡の一部だろうか?
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ここにも円形の窪地がある
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施設の痕跡はあちこちにあるが、特定は出来ない
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周りが平野なので、眺めは良い
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これなんかも完全に円形をしている
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斜面をへつって行く
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竹林に阻まれ、諦めかけた所で
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新たな弾薬庫発見
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入り口の竹をこじ開け、突入する
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内部構造は同じようだ
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弾薬庫入り口、扉の木材が残っているようだ
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鉄筋も見える
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大きさも同じだ
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入り口方向、いろいろと通気口らしき穴がある
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電路の為の配線を打ち込む木材が埋め込まれている
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反対側の出入口
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綺麗に形取りをしている
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しかし、こちらから出るのは断念した
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外から見ると、こんな状態で見付けるのは至難だろう



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この付近も石垣が多い
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城跡なのか、砲台の土留めなのかの判別は付かない
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夏場は難しいので、冬にでも再探索してみたいものだ。

長崎県防空本部跡(立山防空壕)

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長崎文化博物館にやって来た
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博物館には入らず、裏側の路地に向かう(交番の裏側)
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目的の公開壕が見えて来た
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直接関係ないモニュメントの横に
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長崎県防空本部跡(立山防空壕)の説明版がある
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隣に塞がれた壕口
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この辺に来ると、案内の人がパンフレットをくれて、受付をする。入場無料
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壕内図、右下が先の塞がれた壕口となる。オレンジの〇は地上への通気口だ。
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受付を済ませ、壕内に入る
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壕内が直接攻撃されない様に、ずらしてある入り口
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当時は換気ダクトが壕の奥から上を通して繋がっていたのだろう
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入り口付近にある手洗い場
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電気配線を外した跡がある
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中央の衝立部分は、見学用に半分削られたようだ、図面と符合しない
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この時代、木筋コンクリートはポピュラーだ
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順路に沿って進む
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左の壁には二つの通気孔がある
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見上げるが、止めどもなく水滴が落ちて来る
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かまぼこ型の壕を、敷居で区切って部屋にしているのが解る。
順路は通路を奥まで進んで部屋内を戻って来る形になる。
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扉が無いので、内部は見れるし入れる
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二つ目の通気孔 
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上の通気口出口を探すのを忘れてしまった。
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外部から見た、封鎖された壕口の部屋
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なんでここだけ掘り返さなかったのだろう?
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一番奥の長官室(知事室)から見ていく
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御真影を収めていた所
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殺風景ながらんとした部屋
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隣の参謀室
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参謀室は少し広い
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書架だのなんだのの跡が壁に残っている
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通信室は起伏があるせいか、立ち入り禁止になっている
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複数の通信機を置いていた間仕切り壁の跡がある
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伝令室
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展示室となっている
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この壕から発掘された遺構が展示されている
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説明版
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部屋を出ると、隣の壕への連絡通路があるが、通行止めだ
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横に水桶の様な穴が開いている
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出口へ向かう
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後世に修復された間仕切り
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中は掃除道具置き場や、こんな感じになっていた
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隣に開いている連絡通路で接続している壕
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入り口程度しか入れない
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扉周りはボロボロに錆びている
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内部は幾つかの部屋に分かれていたのだろう
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奥の扉が非常に気になる
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左側に階段が有る事になっているが、土が見えているので埋められてしまっているのだろう
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天井や壁面のこの小抗は燃やしただけでは出来ない、内部構造物を破壊、撤去した時の痕跡だろう。




金毘羅山高射砲陣地

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翌日の朝は観光で始まる
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長崎名所、グラバー園にやって来た
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小高い丘にあり、明治から昭和にかけての貴重な歴史的建造物が集められている
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ここに来れば、長崎港が一望だろうと思った
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唯一置いてある大砲
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観たかったのはこれ
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ジャイアント・カバチクレーン、いわゆるハンマーヘッドクレーンだ
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戦前からずっと立っているクレーン
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オルト邸
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この裏手には
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保存庫として使われた、地下壕がある
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三菱長崎造船所 第三船渠。ここは戦艦武蔵が建造された乾ドックで、世界遺産に登録され、見学出来ない
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朝飯代わりにステンドグラスプリンを食べてみた
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ポスターほどは綺麗にならない
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道路の真ん中に大木の生えたとんでもない道を登り、金毘羅山高射砲陣地を目指す
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車で登れる限界まで登って、民家の人に砲台への道を聞き、車を置かせてもらった
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聞けば、金毘羅公園として整備されトイレまで整備されているらしい
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ハイキングコースに入ると、廃屋が立ち並ぶ
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山側にも、当時の住居跡らしき石垣が、そこら中に築かれている
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迷わす標識が出る金比羅山は間違いだった
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金比羅神社を目指せと言われたので、ここまで来てしまった
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しかし分岐を、神社ではなく、左の登り方面に行かなければいけなかった
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分岐点に戻り、山に向かう
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多目的広場を目指さなければならない
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最初の内は道がいい
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付近に塹壕とも取れる部分が増えて来た
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一段下に、整地されたような窪地がある
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石垣が出て来た、砲台は近い
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また違う名前が出て来るが、気にしない
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開けた場所に出る、金比羅公園に到着した
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周辺に、砲座らしき円形の窪地はあるがわからない
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ここには88式7センチ野戦高射砲が6門置かれていた
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何かある?
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地下施設の入り口と庇の様に見えるが?
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同じような状態で埋まっている
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コンクリートの質としては、当時の遺構のようだが
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5つまでは確認できた
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爆心地に近い砲台と言う事で、原爆戦死者之は慰霊碑がある
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かなり近い事が解る
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これが多目的広場と思われる
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一応の説明版はあるが、原爆被害中心である。復旧の暇も無かったのだろう。
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その他のコンクリート片もいくつか見かける
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基準点が落ちている
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不釣り合いに綺麗なトイレ
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一段下にも広場がある
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平坦地で、建物の基礎等も見かけないのだが
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石垣を組んだ池の様な物がある
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池の裏に土塁で隠された壕口がある
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左右に二つあったようだ
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しかし、みっちり埋めてある
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足元にも石垣がある
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何気に降りてみると
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岐(岐阜)28の刻印のある統制食器の盃が落ちていた
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桜をあしらった、良くあるタイプだ
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木の間に何かある
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木造建設物の基礎が残る、便所だろうか?
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それほど大きな建物ではない
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さて、下山しよう
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もと来た道に戻るが、コースは金比羅神社に 山の反対からも車で近つけるようだ
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何気に崩れた石垣を見ると
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要塞地帯票を発見、2Z長崎要塞地帯票
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第四十六号
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陸軍
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明治三十二年六月

長崎原爆資料館

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原爆資料館へ向かう、奥はエレベーター
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階段を選択
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登ると更に階段が待っている
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長崎原爆資料館へ到着
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螺旋状のスロープを降りて行く、時系列を遡って行く設定だ
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連鶴
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なんか日本の鶴とは違う
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1945まで遡った
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1945.8.9ー11:02
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薄暗い館内に侵入する
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旧制瓊浦中学校の給水塔
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三菱長崎製鋼所事務所ビルのらせん階段
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折れ曲がった火の見やぐら
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浦上天主堂の一部
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駅の鉄骨
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B-29ボックスカーから落とされた原爆
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ファットマン
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ファットマンはマンハッタン計画の一部としてロスアラモス国立研究所で作られた核兵器である。 リトルボーイ(Mark 1)が高濃縮ウランを用いたガンバレル型の原子爆弾であるのに対して、ファットマン(Mark 3)はプルトニウムを用いたインプロージョン方式の原子爆弾である。
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熱で溶けた硬貨類
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溶けてくっついたビン
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お弁当の中のお米が炭化してしまっている
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寛永通宝等の古銭
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固形石鹸
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原爆投下時間で止まっている時計
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鉄骨でもあっさりと曲がってしまう
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被爆者の写真等は、あえてスルーさせてもらいます。
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世界の公式?核爆弾保有数
これはあくまでも、核弾頭の形をしている物の保有数で、原材料を含めれば全く違う数字になる
世の中には劣化ウラン弾なる、戦車砲にすら使われている核廃棄物利用の砲弾がある
目に見えない数字とは怖いものだ。
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広島原爆ドームの模型
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他にも歴史民族資料館、平和会館等があるので、興味があれば。

長崎平和公園

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平和公園、原爆落下中心地公園北側、小高い丘にある平和公園は、悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと、世界平和への願いを込めてつくられた公園。
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この入り口付近には、民間防空壕の跡がいくつか開いている
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ちょっと看板はひどい状態だ
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入り口の一つ
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壕口はすべてアクリル板かフェンスで塞がれている
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壕内は、説明版と共にライトアップされている
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にゃんこを追いかけて、行くと
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住宅のそばに、もう一つあった
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防空壕にいた、子供一人以外は全滅してしまったそうだ。防空壕は大事にしよう。
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入り口から階段もしくはエスカレーターで登っていくと
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平和の泉がある
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公園中央部へ進む
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公園内には至る所に各国から寄せられたモニュメントや碑が置かれている
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長崎の鐘
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放射状に築かれた建物の基礎
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長崎刑務所浦上刑務支所跡
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今はにゃんこの散歩道になっている
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煉瓦塀を辿って行くと
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にゃんこと目が合った
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目的はこっち
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被爆、刑務所の壁
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「平和祈念像」
長崎市民の平和への願いを象徴する高さ9.7メートル、重さ30トン、青銅製の平和祈念像。制作者の長崎出身の彫刻家北村西望氏はこの像を神の愛と仏の慈悲を象徴とし、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という想いを込めました。毎年8月9日の原爆の日を「ながさき平和の日」と定め、この像の前で平和祈念式典がとり行なわれ、全世界に向けた平和宣言がなされます。
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平和公園は大きく3つに分かれる。今見た公園本体と、道を挟んだ原爆落下中心地、原爆資料館だ
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原爆落下中心地ブロックに入る
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黒ずんでいるのは被爆の跡
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聖徳寺の石灯籠
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爆心地のサークル
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浦上天主堂の一部
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河原に降りれるゾーンがある
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この右手になるのだが
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反射と汚れで、非常に観にくい

佐世保海軍工廠造兵部 川棚魚雷遠距離発射場(片島魚雷発射試験場跡)その3

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この先に探信儀領収試験場がある
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当時のコンクリート道路らしいが、ちょっとだけ崩落している
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破壊ではなく、波による浸食のようだ
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渡るには支障は無い
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新観測所などとも言うらしいが、探信儀(いわゆるソナー)の性能テストをする場所だ
地上の振動を拾わないために、あえて桟橋を繋げずに木製の橋を渡していたのだろう
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こちら側の橋の端部
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さすがにどうしょも無いので諦める
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ここから船なら上陸出来そうだ
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順路に戻る
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山道に入る
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左手に第二油庫
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冷却水槽
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第二魚雷調整場
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案内板の無い分岐があり、右が観測所だが、何か見えるのであえて左に行く
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かなり大きなコンクリート遺構だ
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破壊されて、水の無くなった貯水槽(人の背丈ほど)
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今は少し溜まってる
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そのまま真っすぐ降りて行くと
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鉱滓煉瓦のトンネルが現れた
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手作りな看板
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行けそうか?
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ダメっぽい
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閉鎖されたキャンプ場にあるコンクリートの壁
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なんだろう、単なる土留めか?
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分岐点に戻って来た
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道が川の様だ
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10分ほど登った
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雨に煙りながら、観測所が見えて来た
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あと少しで道が消えた、よほど誰も来ないのだろう
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がさ藪を突っ切ると、真下に出た
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入り口は何処だ?
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見上げると、かなり崩れていそうだ
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入り口が見えた、反対側か
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庇が分厚い
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屋上への階段があったようだ
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内部へ入る
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二階への階段は無くなっている
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天井に開く穴
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何故か梯子がある
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二階のテラスには、渡し板が張られているが信用出来ない
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2階の床は、見事なぐらい無くなっている
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板は踏み抜いても自己責任
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これでは何も観測できない
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観測所を出る
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順路を下るとコンクリート台座があった
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鳥居がある
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片島神社、魚雷の試射成功や安全を祈願したらしい
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第二魚雷調整場に戻って来た
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今度は晴れている時に来たいものだ
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長崎の宿に向かう

佐世保海軍工廠造兵部 川棚魚雷遠距離発射場(片島魚雷発射試験場跡)その2

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空気圧縮ポンプ場
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1階は石造り、2階は煉瓦造りとなっている
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木造の屋根が無くなっているので、緑が繁殖している
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機械の無い、通路部分はタイル貼りになっている
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廃墟マニア受けするのも頷ける
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外側と違って内側の造りは雑で、モルタルを塗ってごまかしている
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二階は無く、吹き抜けになっている
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部屋の後半は、タイルが無くなっている
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大型機械の搬出された穴は、池になっている
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振り返ると魚雷発射場が見える
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何の台座だったのだろう
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屋根の梁を組む為のホゾが切られている
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ここでは酸素魚雷の酸素を作っていた等の不確定な噂はある
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どんな作業をしていたのだろうな・・・
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一番大きな機械台座
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75年で、こんなに屋内に木が茂るんだな
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水と太陽はたっぷりあるし
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観光用か、1ヵ所だけ格子が渡されている
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奥の1/3は、別室になる
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後半の部屋
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破壊の痕跡は少ないようだ
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水槽?
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扉は横開きにレールが付いていたようだ
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こっちの部屋にはタイルは無い
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前室との境の壁
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破壊が少ない分、基礎がしっかり残っている



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裏側に出た
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巨大なプールがある
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山側に3つの調整水槽か?
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冷却水槽跡
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上にも何かある
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裏側にもコンクリート遺構はたくさんある
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山側は緑に埋もれているが、第二魚雷調整場
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その前にある貯水槽
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天蓋でも付いていたのだろうか
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それほど深い物では無さそうだ
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第二魚雷調整場
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その他小規模遺構はたくさんある
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空気圧縮ポンプ室手前
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第一魚雷調整場
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海岸前の基礎も無い場所
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立札だけが建っている
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油庫に向かう
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第一油庫基礎
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油庫と冷却水槽の間には排水溝がある
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便所
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第二油庫は現存している
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入り口は山側だ
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斜面との間を回り込む
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天井は無い
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後から乗せた、竹が三本乗っている
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海側窓の飾り
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目の前の第一油庫は、一部埋没している様だが、形状はまるで違うようだ。