大谷石採掘場跡(中島飛行機地下軍需工場)その1
栃木県宇都宮市大谷町にある、大谷石地下採掘場跡、「大谷資料館」に行って来た。
大正9年から採掘を始め、昭和61年までの約70年間操業をしていた採掘場だ
もちろん、ここが採掘を辞めただけで、大谷石は現在も近隣の地域で多数、採石されている。
ここに着くまでの道中も石材屋はもちろん、壁といい、倉庫といい、至る所で大谷石が散見出来る
広さは約2万平方メートル(140mX150m)、深さは平均30mで、深い所は地下60mにも及ぶ
後楽園球場一個が楽に入る大きさだそうだ(資料館チラシより一部抜粋)
昭和19年に陸軍の糧秣廠、被服廠の地下倉庫として使用が始まったが工場はまだ無い。
計画自体は昭和17年よりあった様だが、実際に操業を開始したのは昭和20年の4月に入ってからの様である
中島飛行機(株)宇都宮製作所城山機体工場と、もう一つは、中島飛行機(株)武蔵製作所大谷発動機工場がこの地区に疎開工場を設置した。
大谷資料館は城山機体工場の金入山作業所の跡地になる場所で、工作機械・熱処理部門の工場になっていた。
大谷発動機工場では、四式戦(疾風)に装着された発動機の部品生産と組立が行われた。
戦争中は大谷地下軍需工場に対する空襲は1回も無く、戦後、接収に訪れた米軍も、終戦までこの地下工場の存在は全く気付かず、その規模の大きさに驚いたと言う逸話がある。
那須 戦争博物館を後に、大谷資料館に向かう
道中に目立った看板などは無く、直前のこの看板のみで少し探した
1400、現地到着
駐車場の上にある巨大な大谷石、あの穴に行ってみたい
横にも大きな穴が開いていた
駐車場は日曜とゆうこともあり、込んでいたが、ここで遅めの昼飯
自分の持って来た戦闘糧食Ⅰ型Ⅱ型を用意する、今回はいわし野菜煮、中華風カルビ、豚しょうが焼き、豚甘辛煮と副食として人気のたくあん漬けを用意する、ヒートパックも支給されるので、水さえあれば何処でも熱々ご飯が食べられる優れもの、米軍より火力は強いので、火傷に注意
問題は時間がかかる事で、20分ほど周りをふらつく(火気は使用していない)
坂の途中にあった当時のボンネットトラック(オブジェとなっている)
ひらがなのいすゞだった
その手前に、冷気の噴出している穴がある
切れだした石をトラックで積み出した出入り口、戻って無心にミリメシをかっ食らう
食後に坑内採掘場跡を見る(写真提供榴弾砲氏)人物比yakumo&tonotama氏
ちょっと彷徨うと、こうゆう入り口は至る所にある
奥に抗口が開いている
左側、真ん中の黒い所は車両用のスロープ
右側、良く落ちて来ない物だ
愛の泉だそうだが、死んだ小魚が沈んでいた
その手前には、手かせの様な物が2対あった、愛とは枷をはめる物との事だろうか?深い・・・
行啓記念碑
では、資料館に入る
チケット色々
開館時間は0900~1630まで、受付は1600まで
基本、坑内は一方通行だが、出口を出なければ何週でも出来る
平面では判らない、3Dの世界がある
左奥にあるカットモデル
これは資料館側
こんな感じとゆうだけで、詳細とは符合しない
最下層60m部分
ツルハシなどの鍛冶屋道具
運搬用トロッコ
ロープ巻き取り機
チェンソー式垣根採掘機
二人で持つチェンソー
麦打ち機
作業順序



検印判
お風呂
一つ80kgあるそうだ
採掘場分布図
説明
パネル写真
①
②
③
④
⑤

青図面

年表
上で切り出した石を降ろす、滑り台
次回、坑内に入る
大正9年から採掘を始め、昭和61年までの約70年間操業をしていた採掘場だ
もちろん、ここが採掘を辞めただけで、大谷石は現在も近隣の地域で多数、採石されている。
ここに着くまでの道中も石材屋はもちろん、壁といい、倉庫といい、至る所で大谷石が散見出来る
広さは約2万平方メートル(140mX150m)、深さは平均30mで、深い所は地下60mにも及ぶ
後楽園球場一個が楽に入る大きさだそうだ(資料館チラシより一部抜粋)
昭和19年に陸軍の糧秣廠、被服廠の地下倉庫として使用が始まったが工場はまだ無い。
計画自体は昭和17年よりあった様だが、実際に操業を開始したのは昭和20年の4月に入ってからの様である
中島飛行機(株)宇都宮製作所城山機体工場と、もう一つは、中島飛行機(株)武蔵製作所大谷発動機工場がこの地区に疎開工場を設置した。
大谷資料館は城山機体工場の金入山作業所の跡地になる場所で、工作機械・熱処理部門の工場になっていた。
大谷発動機工場では、四式戦(疾風)に装着された発動機の部品生産と組立が行われた。
戦争中は大谷地下軍需工場に対する空襲は1回も無く、戦後、接収に訪れた米軍も、終戦までこの地下工場の存在は全く気付かず、その規模の大きさに驚いたと言う逸話がある。























































次回、坑内に入る
スポンサーサイト
コメント
No title
2013-06-06 23:49 kan URL 編集
No title
そうゆう年代なもので・・・
てか、資料館パンフレットの抜粋なのです。
2013-06-07 00:12 yakumo URL 編集
最後の学生動員
昭和21年4月の新学期から、日本が大東亜戦争に勝つ為君達は社会勉強の一環として飛行機製作所にゆき飛行機作りの手伝いに行く事になったと先生から告げられました。私達2年3組は戦闘機の組み立て工場に行き頑張って国の為に尽くしてくれと先生の訓話で、翌日から会社の送迎バスで飛行機製作所の組み立て工場に行き初日からキ84式戦闘機のコックピットの説明があり、その座席の低さに驚き説明を聞き乍その理由がわかりました。低いのは座席の上に折畳んだパラシュ-トを乗せ其の上にパイロットが座ると説明され納得しました。私が不思議に思ったのは座席全体がベニヤ板製で鋼板はどこにも用いられていないのです。
(私は昭和20年初頭に土浦の海軍航空隊の飛行機と米国の戦闘機との空中戦を目撃しましたが惜しくも日本の戦闘機がやられパラシュ-トで降下した時の様子は今も脳裏から離れません、後日談としてパイロットは戦死したそうです、黙祷)もし後ろから機銃で撃たれたらパイロットは勿論飛行機もろとも墜落すると思っていましたが言えず、自分なりにこれが日本の飛行機と思いながら説明が終わったのです。最初はカッコいい飛行機と思って喜んで工場にゆきました。工場は少数のベテラン職人と男子生徒と女子生徒ばかりで中に兵隊さんも働いていました。
たまたま工場内を15人位の部下を従えて夫々白い手袋をはめ偉そうに巡回団を目撃しました。巡回した人達は工場長と技師と聞き、将来は技師になりたい思い遠くからみていました。
工場から完成した飛行機は毎日10機程滑走路に運びその1割程度が遥か戦地に飛び立って行くのだったのです、この数値は極秘だそうです。
当事の作業を思いだそうとしますが記憶がはっきりしていないのです。
その後この工場は敵に狙われているので市外の大谷石採掘後の地下工場に行く事に変更になったと知らせられた。
工場の入り口はいつも着剣した銃を構えた衛兵が立ち自由に出入りが出来ず先生の引率で出入りしたのです。地下工場は地下百尺の所に地上からトラックの出入り出来る道を作り工場の中に工作機械を据付て裸の電球がぶら下っていました。私達は地上に近い所に飛行機部品のメッキをする工場に配置転換となり、その時にコ゜ム長靴が支給それその長靴を履き乍の作業でして。地上に近い作業場だったの電灯つかなくても比較的明るかったが、地下百尺の中の工場は停電すると一寸真っ暗で上からかすかに太陽の明かりみえるのみです。電灯が付いている時は機械の回っている音だけですが、停電となるとあっちこっちから女性の悲鳴が聞こえ(キヤ-とか○○ペ-)るのです。
案外男子は停電のあるのを待ってたのしんでいたのかも知れません。
2015-08-19 16:48 福田恵万 URL 編集
福田様
石切り場内で電気配線を見ましたが、絶縁不足とか色々と問題もあった様ですね
厳しい作業、ご苦労様でした、4月ではまだ栃木は寒かったのでしょう
真冬で無くて良かったですね、自分は冬にも行きましたが、ツララが下がって大変な所でした
2015-08-19 22:54 yakumo URL 編集