油壺震洋特攻基地 その4

DSC05187_R.jpgひたすら落っこちそうな、滑る岩礁を辺吊ってきた、この辺は人工的な基礎が見受けられる
DSC05188_R.jpg侵食により転げ落ちたボラード
DSC05189_R.jpg埋もれた震洋壕
DSC05190_R.jpg不意にしっかりしたコンクリート基礎が現れる
DSC05192_R_20130907195909bd5.jpgしかも、基礎の裏には壕がある
DSC05191_R.jpg壕自体は小さく、倉庫壕か、退避壕の様だ
DSC05193_R.jpgこの辺は現代科学で作られた施設が多い、間口が狭いので自然窟だろう
DSC05194_R.jpg東大三浦臨海研究所が軍施設跡地を利用している様だ
DSC05195_R.jpgさきに見た4m級震洋壕改造だろう
DSC05196_R.jpg埋った震洋壕、入れそうも無い
DSC05197_R.jpg石垣がある、怪しさを感じ、崖を登る
DSC05198_R.jpg2層式の天水濾過槽がある
DSC05199_R.jpg更に登り上から見下ろす
DSC05200_R.jpg更に上には、当時の石垣と合体した近代施設がある
DSC05201_R.jpg調子に乗って山越えしてしまった、本部が置かれた東大三浦臨海研究所本館が下に見える
東大三浦臨海研究所は1886年、世界的にも豊かな生物相を有するとして同市内に設立された。1945年2月に海軍に接収され、特殊潜航艇基地になり、実験所は小網代の小屋に移った。
本館の1階は本部、2階は将校室と食堂となり、屋上には軍艦旗が掲げられた、建物には迷彩色が塗られたという
DSC05202_R.jpg山肌に給水タンクがある、時代不明
DSC05203_R.jpg明治末期に建てられた木造実験棟
DSC05204_R.jpg横から見た東大三浦臨海研究所本館、老朽化により使用不能に一部なる
DSC05205_R.jpg数年前の生前の写真
miura_kaiyou_1_R.jpg戦前の様子
7_120723_R.jpg2011年3月原因不明の出火にて全焼、今は完全に更地になっていて、跡形も無い(ニュースキャプチャー)
DSC05206_R_20130907210725444.jpg露天風呂か?
DSC05208_R.jpg入り口にある、衛所と思われる建物
DSC05207_R.jpg構造的には油脂庫に見える
DSC05209_R_20130907213425ba5.jpg天井には通気孔がある、天蓋が在ったのだろう
DSC05210_R.jpg何故ヤギ?
DSC05211_R_20130907213429f26.jpg壁面に清水溜めが作られている
DSC05215_R.jpg。岬の先端を巡るハイキングコースの階段沿いにある狙撃用洞窟陣地
DSC05214_R.jpgかなり大きな狙撃口だ
DSC05217_R.jpg狙撃室のみ、総コンクリート製
DSC05218_R_20130907214210643.jpg丸みを帯びた狙撃口より、海を見る
DSC05219_R_201309072142124eb.jpg遠くに荒崎方面が見える
DSC05220_R.jpg油壺マ〇ンパークの不法投棄パイプを乗り越え先に進む
DSC05221_R.jpg正面に物置的なくぼみ、右に行く
DSC05222_R.jpg狭い通路を左に曲がると
DSC05223_R.jpg部屋があって、行き止まり
DSC05224_R.jpg左に戻ると複雑な分岐路
DSC05225_R.jpg左の小さな部屋
DSC05226_R.jpg壁の彫りこみ
DSC05227_R.jpg入り口方向を振り返る
DSC05229_R.jpg右にある大きめの部屋
DSC05230_R.jpg通路に転がる砲弾三発
DSC05231_R.jpg抜き穴の開口部
DSC05232_R.jpg出れるが、フェンスに囲まれており脱出出来ない
DSC05233_R.jpg天井には何かを打ち込んだ金属片が
DSC05235_R.jpg狙撃室に戻って来た
DSC05236_R.jpgここの出入りは観光客に変な目で見られそうだ
DSC05237_R.jpg海岸には何故かコンクリートの水桶
DSC05238_R.jpg対岸にも穴がある様だ
DSC05239_R.jpg三浦道寸の墓
DSC05240_R.jpg東大三浦臨海研究所への入り口、陸軍の門柱か東大の物かは不明
img_138315_5995093_5_R.jpg当時の海龍の写真、験潮所が写っている
P5014178_R.jpg艦橋部分比較用、現存海龍

最後に終戦翌日に起きた、海軍第23突撃隊配属第128震洋隊の悲劇に着いて触れておきたい
長崎県川棚基地においての事だが、有名なエピソードである。
終戦を知らない128震洋隊に誤報が舞い込み、出撃する事になる、出撃準備中に少年兵よりガソリン漏れの報告がされたが、上官に一蹴された、その後その艇より出火したがその時点では消火、作業に戻った所へ250kg爆薬に引火、連鎖的に22隻が爆発炎上、111名の命が失われた。
終戦後の事故としては最大規模の物であった、当時の習慣とは言え部下の報告を真摯に聞いていればあるいは無かったかも、そもそも発信者不明の誤報がなければと、たらればの話だ。
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