
ひたすら落っこちそうな、滑る岩礁を辺吊ってきた、この辺は人工的な基礎が見受けられる

侵食により転げ落ちたボラード

埋もれた震洋壕

不意にしっかりしたコンクリート基礎が現れる

しかも、基礎の裏には壕がある

壕自体は小さく、倉庫壕か、退避壕の様だ

この辺は現代科学で作られた施設が多い、間口が狭いので自然窟だろう

東大三浦臨海研究所が軍施設跡地を利用している様だ

さきに見た4m級震洋壕改造だろう

埋った震洋壕、入れそうも無い

石垣がある、怪しさを感じ、崖を登る

2層式の天水濾過槽がある

更に登り上から見下ろす

更に上には、当時の石垣と合体した近代施設がある

調子に乗って山越えしてしまった、本部が置かれた東大三浦臨海研究所本館が下に見える
東大三浦臨海研究所は1886年、世界的にも豊かな生物相を有するとして同市内に設立された。1945年2月に海軍に接収され、特殊潜航艇基地になり、実験所は小網代の小屋に移った。
本館の1階は本部、2階は将校室と食堂となり、屋上には軍艦旗が掲げられた、建物には迷彩色が塗られたという

山肌に給水タンクがある、時代不明

明治末期に建てられた木造実験棟

横から見た東大三浦臨海研究所本館、老朽化により使用不能に一部なる

数年前の生前の写真

戦前の様子

2011年3月原因不明の出火にて全焼、今は完全に更地になっていて、跡形も無い(ニュースキャプチャー)

露天風呂か?

入り口にある、衛所と思われる建物

構造的には油脂庫に見える

天井には通気孔がある、天蓋が在ったのだろう

何故ヤギ?

壁面に清水溜めが作られている

。岬の先端を巡るハイキングコースの階段沿いにある狙撃用洞窟陣地

かなり大きな狙撃口だ

狙撃室のみ、総コンクリート製

丸みを帯びた狙撃口より、海を見る

遠くに荒崎方面が見える

油壺マ〇ンパークの不法投棄パイプを乗り越え先に進む

正面に物置的なくぼみ、右に行く

狭い通路を左に曲がると

部屋があって、行き止まり

左に戻ると複雑な分岐路

左の小さな部屋

壁の彫りこみ

入り口方向を振り返る

右にある大きめの部屋

通路に転がる砲弾三発

抜き穴の開口部

出れるが、フェンスに囲まれており脱出出来ない

天井には何かを打ち込んだ金属片が

狙撃室に戻って来た

ここの出入りは観光客に変な目で見られそうだ

海岸には何故かコンクリートの水桶

対岸にも穴がある様だ

三浦道寸の墓

東大三浦臨海研究所への入り口、陸軍の門柱か東大の物かは不明

当時の海龍の写真、験潮所が写っている

艦橋部分比較用、現存海龍
最後に終戦翌日に起きた、海軍第23突撃隊配属第128震洋隊の悲劇に着いて触れておきたい
長崎県川棚基地においての事だが、有名なエピソードである。
終戦を知らない128震洋隊に誤報が舞い込み、出撃する事になる、出撃準備中に少年兵よりガソリン漏れの報告がされたが、上官に一蹴された、その後その艇より出火したがその時点では消火、作業に戻った所へ250kg爆薬に引火、連鎖的に22隻が爆発炎上、111名の命が失われた。
終戦後の事故としては最大規模の物であった、当時の習慣とは言え部下の報告を真摯に聞いていればあるいは無かったかも、そもそも発信者不明の誤報がなければと、たらればの話だ。
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