大井海軍航空隊、地上遺構
前回大井海軍航空隊地下壕 沢水加地区プレリサーチにおいて、地下壕のさわりの部分だけ見て来た
今回は地上に残る遺構と3つある地下壕の内の沢水加地区のみを探索した、今回も空母欲奈氏に案内してもらった
しかし、残念ながら年末とゆうことで、牧の原コミュニティセンターは休みだったので、屋外展示のみ見て来た

残念ながら休館日

以下、小さい画像は空母氏から借りた館内の物だ

④機関科倉庫(現牧の原コミュニティセンター)

屋外展示物

引き上げられた白菊エンジン

白菊(赤とんぼ)のエンジンについて

外装はほとんど無いが原型を留めた貴重な物だ

クランクシャフトも良く残っている

白菊のタイヤ?と海軍魂注入棒とカンバン

裏側

表側

黄色(オレンジもある)は試作や訓練機を示す色

高圧制動車輪

日本タイヤ株式会社(今のブリヂストン、戦時10年ほどこの名前に変更、ブリジストンと書くと怒られる、ジではない)
御存知、創業者の石橋正二郎にちなみ英語の「ブリッジ」(橋)と「ストーン」(石)をもじった社名である

時鐘

砲金とは、銅と錫の合金の一種で文字通り大砲の砲身の材料で耐磨耗性や耐腐食性に優れる、別名ガンメタル

コミュニティセンターから東に向かうと電探講堂と言われている物がある(勿論間違いである位置的に)

2枚目の古写真にもうっすら見える川の橋

いくつか石柱が立っている

裏は珍しい英文である

見やすいのがあった、「境界標日本政府」米軍統治時代の物だ

木製の懐かしい電柱、戦後の物だろう

足元に落ちていた英文の石柱

2枚目の古写真を見ると、地形的にも明らかに24(通信講堂)の上の小さな建物だ

ズームすると、下地が出ている所がある、外観は戦後改修されたもの

ここには号令台があった、宅地化で消えてしまった

また、空母氏に借りる事にする

茶畑のカットがそのまんま、位置を教えてくれる(ブロック部分は後世の物)

裏側

これは航空隊正門の左側門柱を加工した物だ

左上のフックは隊旗を掲揚するのに使っていたそうだ

御案内

横から見ると後に伸びている

裏側

①大門付近のコンクリート基礎

建物の基礎がある

住民の方がこれ等(用水路も)は、昭和15年頃から飛行場建設の為に作った物だと教えてくれた(17年に開隊)
すでに茶畑があり、相当住民とのトラブルが摂取時にあったそうだ

隊門の裏側に回ると、壁の続きがある(オリジナルの外壁)

モルタルの剥がれから、あまり見掛けない煉瓦の形が見える

近くで見ると結構いびつな積み方、明治砲台の様な美しさは無い

煉瓦自体の縞模様がいびつに見せるのかも知れない

似た様な高さに切り掻きがある、何か設置していたのだろうか?

道路側から見る

モルタルとの境目

79号線沿いの退避壕を見に行く

本来、地中に埋設だが、掘り返されている

大井川の川石を使っているようだ

入り口

当時から蓋はあった様だ

外観より中は綺麗だ

すぐ近くにある司令部(作戦室)壕、ここに向けて三方向から壕を掘る計画だった

ここでまた、日に負けているので空母氏の写真を借りる

草に覆われた壕口

内部は途中で司令部側からブロックで塞がれている(お茶の冷蔵保管庫になっていたそうだ)

壁面には製造時にくり貫いた土がまだ残っている(土盛りの上にコンクリを塗り土を搔き出して造る天井製造法)

司令部天井部と通気筒

基礎は土と石を交互に積み上げた貧弱な物に見える

当日は寒く、ツララが下がっていた

天井に登ってみる

通気筒の他に、金具が付いたコンクリート塊があった

この廃屋と司令部入り口が合体していて中に入れない

牧の原北地区を歩くと⑬酒保のあたり

再利用されていたが、基礎は当時の物だろう

すぐ脇にも基礎の上にブロック塀を積んでいる所がある

全体を写すと結構広い範囲になる

⑮烹炊室の一部だろうか?

明らかに当時の縁の下の通気孔

⑭風呂のあたり

上物は一度別に建てられた様で、材質が違う(基礎は古いもの)

近くには古い排水設備がある、風呂は合っているのだろう

駐車場の外壁

上から見ると変わった形をしている、当時物だろう
一通り見たので、地下壕に向う
今回は地上に残る遺構と3つある地下壕の内の沢水加地区のみを探索した、今回も空母欲奈氏に案内してもらった
しかし、残念ながら年末とゆうことで、牧の原コミュニティセンターは休みだったので、屋外展示のみ見て来た

残念ながら休館日

以下、小さい画像は空母氏から借りた館内の物だ

④機関科倉庫(現牧の原コミュニティセンター)

屋外展示物

引き上げられた白菊エンジン

白菊(赤とんぼ)のエンジンについて

外装はほとんど無いが原型を留めた貴重な物だ

クランクシャフトも良く残っている

白菊のタイヤ?と海軍魂注入棒とカンバン

裏側

表側

黄色(オレンジもある)は試作や訓練機を示す色

高圧制動車輪

日本タイヤ株式会社(今のブリヂストン、戦時10年ほどこの名前に変更、ブリジストンと書くと怒られる、ジではない)
御存知、創業者の石橋正二郎にちなみ英語の「ブリッジ」(橋)と「ストーン」(石)をもじった社名である

時鐘

砲金とは、銅と錫の合金の一種で文字通り大砲の砲身の材料で耐磨耗性や耐腐食性に優れる、別名ガンメタル

コミュニティセンターから東に向かうと電探講堂と言われている物がある(勿論間違いである位置的に)

2枚目の古写真にもうっすら見える川の橋

いくつか石柱が立っている

裏は珍しい英文である

見やすいのがあった、「境界標日本政府」米軍統治時代の物だ

木製の懐かしい電柱、戦後の物だろう

足元に落ちていた英文の石柱

2枚目の古写真を見ると、地形的にも明らかに24(通信講堂)の上の小さな建物だ

ズームすると、下地が出ている所がある、外観は戦後改修されたもの

ここには号令台があった、宅地化で消えてしまった

また、空母氏に借りる事にする

茶畑のカットがそのまんま、位置を教えてくれる(ブロック部分は後世の物)

裏側

これは航空隊正門の左側門柱を加工した物だ

左上のフックは隊旗を掲揚するのに使っていたそうだ

御案内

横から見ると後に伸びている

裏側

①大門付近のコンクリート基礎

建物の基礎がある

住民の方がこれ等(用水路も)は、昭和15年頃から飛行場建設の為に作った物だと教えてくれた(17年に開隊)
すでに茶畑があり、相当住民とのトラブルが摂取時にあったそうだ

隊門の裏側に回ると、壁の続きがある(オリジナルの外壁)

モルタルの剥がれから、あまり見掛けない煉瓦の形が見える

近くで見ると結構いびつな積み方、明治砲台の様な美しさは無い

煉瓦自体の縞模様がいびつに見せるのかも知れない

似た様な高さに切り掻きがある、何か設置していたのだろうか?

道路側から見る

モルタルとの境目

79号線沿いの退避壕を見に行く

本来、地中に埋設だが、掘り返されている

大井川の川石を使っているようだ

入り口

当時から蓋はあった様だ

外観より中は綺麗だ

すぐ近くにある司令部(作戦室)壕、ここに向けて三方向から壕を掘る計画だった

ここでまた、日に負けているので空母氏の写真を借りる

草に覆われた壕口

内部は途中で司令部側からブロックで塞がれている(お茶の冷蔵保管庫になっていたそうだ)

壁面には製造時にくり貫いた土がまだ残っている(土盛りの上にコンクリを塗り土を搔き出して造る天井製造法)

司令部天井部と通気筒

基礎は土と石を交互に積み上げた貧弱な物に見える

当日は寒く、ツララが下がっていた

天井に登ってみる

通気筒の他に、金具が付いたコンクリート塊があった

この廃屋と司令部入り口が合体していて中に入れない

牧の原北地区を歩くと⑬酒保のあたり

再利用されていたが、基礎は当時の物だろう

すぐ脇にも基礎の上にブロック塀を積んでいる所がある

全体を写すと結構広い範囲になる

⑮烹炊室の一部だろうか?

明らかに当時の縁の下の通気孔

⑭風呂のあたり

上物は一度別に建てられた様で、材質が違う(基礎は古いもの)

近くには古い排水設備がある、風呂は合っているのだろう

駐車場の外壁

上から見ると変わった形をしている、当時物だろう
一通り見たので、地下壕に向う
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コメント
大井海軍飛行場の水路について
以前住んでいたので、懐かしく拝見しました。
電探の建物脇の橋の下は埋められていますが。
ここで新たな排水路工事が、住んでいた時にありまして。
その時、橋の下の水路トンネルが露出していました。
コンクリのアーチ型でしたので、「橋を架けてトンネル?」と不思議だったのを思い出しました。
重量物対応だったかもしれません。
ご参考まで。
2021-10-16 19:22 TOKIFURU URL 編集
TOKIFURU様
きっと橋を渡るトラック等の、弾薬や燃料などの重量物を考慮しての物だったのでしょうね!
2021-10-16 22:39 URL 編集