真、重砲兵学校校長邸防空壕(ヒギンズ邸)その1

重砲兵学校、校長邸防空壕で紹介した、ヒギンズ邸裏側の壕口は、ずっと探していた大津機銃陣地そのものだった。
内部構造は2層式、大型と中型の2つの銃眼を持っていた。
戦前、戦中と重砲兵学校の校長邸として使用され、戦後はウオーレンス・ヒギンズ中佐が横須賀米軍基地司令官ベニー・デッカー大佐の右腕として海軍司令部に配属され宿舎としてこの邸宅を使用する事となる。
実はこの二人は海軍士官学校の同期で友人であった、ヒギンズ氏は卒業後民間のスタンダード石油などに勤務していたが、日米開戦のおり海軍に志願、プリンストン軍政学校で訓練を受ける、戦後広島の軍政部に赴任、この時日本人女性と結婚(本国に家庭あり、つまり重婚)している。
46年8月にベッカー大佐の下へ引き抜かれる、この人物は親日派でヒギンズ氏共々戦後復興に貢献した人として有名であるが、一方でベッカー大佐のワイフは白人至上主義者で、恐妻であった。
その事が災いし、日本人と結婚したヒギンズ氏は50年代に総司令部を辞任している。
辞任後もしばらくは大津に住み続け、後に厚木などに転居する事になる。
ヒギンズ氏は保険会社(キャピタル保険)の重役をしていたが、他にも友人との会社共同運営や横須賀ロータリークラブ会長(外国人初)などと色々な事をしていた。
なお、三笠復興にベッカー大佐が尽力した事にはなっているが、実はヒギンズ氏による功績が殆んどであったらしい、この辺も辞任の原因の一つかも知れない、彼はこういい残している「彼は(ベッカー)は悪くない、彼の妻が・・・・」。
息子のヴィクター・ヒギンズ氏の話しの中に、面白いものがあった、「裏山に旧日本軍の壕があって、2階に上ると機関銃が置いてあったのを見た」とゆうような文面を市史研究「横須賀」第7号の中から見つけた。
終戦後直ちに摂取され、陣地内の武装解除が成されないまま、引き渡された物と思われる。
この壕はヒギンズ氏によって、来客用のバーに改造されているとの話だ
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大津駅前の広大な土地がヒギンズ邸
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当時の庭師付き日本庭園
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山を背にした、似た位置からのアングル
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壕口その1
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壕口のの2
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壕口その3
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未見だった壕口その4、わずかな隙間が有る
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四角い通路
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突き当たりに掘ってある謎のくぼみ、貫通していれば銃眼になって入り口を守備出切る
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その下には一部コンクリートが引かれている
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左にクランクして小部屋になっている
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足元には戦後と思われる碍子が散乱している
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コンクリートの薄い階段
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これがバーカウンターの棚のようだ
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右を見ると何か見える
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なんと、暖炉だ(しかもグリルつき)
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煙突は密着していない(わざとか?)
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グリルと思われる部分
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暖炉には上から岩盤が崩れ落ちて来ていた
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ここもキノコ栽培に使ったのか、埃避けにビニールを貼っていたのか不明
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左にある小部屋、収納庫か?
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奥にある、埋った開口部
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金属製の灯楼みたいな物
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この壕には古い消火器が多い、壕内で火を焚いていたせいだろうか・
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先は無かった
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暖炉の部屋に引き返す
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暖炉前にチェスの駒が散乱している
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チップもある
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フロア全体、右正面がバーカウンター
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パーティーでもやってたのか、造花や飾も散乱する
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バーカウンターのテーブルはコンクリートを引いてたようだ
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碍子が逆さまに一つ
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天井には碍子がまだ残っている
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この写真の左側、溶岩石でプチ庭園が作ってある
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水道ホース、1mほどの位置から貯まった水を滝状に下に流す仕掛け
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水底だった所にはいろんな物が落ちている
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奥に噂通り、2階へ続く階段が!

時間が無いのでまた次回!

参考記事
陸軍重砲兵学校 その1
陸軍重砲兵学校 その2
この学校の校長の官舎時代の防空壕で、後に大津機銃陣地となる
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コメント

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No title

いい感じのバーですね!
ピザも焼けそうな釜もあるし、地下だし呑みに行きたい(^ω^)

No title

残念ながら、先月コンクリートの壁に埋まってしまいました
次回2階機銃陣地を紹介

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〇で育った者様

コメントありがとうございます。
「大津古墳群」に付いては聞いてはいましたが、現地にも説明板の一つも無く、全く痕跡も判りませんでした。
向井正方の墓に関しては、おっしゃるとおり信楽寺鐘楼付近から、新興住宅建設の折に貞昌寺付近に妻の墓と共に山一つ分移設されているようですね。
これは「自分の墓は江戸の見えるところに」と言っていたという向井正方の希望を反映した高台への移動でしょう。
戦跡も、古墳も新興住宅などの開発で、どんどん消えてしまうのですね、残念です

写真にあるブルーシートが、古墳の発掘調査に関連した物かもしれませんね。向井正方の墓に関しては、ご指摘のように現在の信楽寺鐘楼のあたりにあったようですね。子どもの頃の記憶では、大津幼稚園の前の道の突き当たりにあった「貯水池」の脇からよじ登ると山の上に獣道のようなものがあり、そこが我々の遊び場でした。向井正方の墓が普通に歩いて行ける北端でしたから、当時の遊び場のほとんどは宅地になったということのようです。

〇で育った者様

自分は当時桜ヶ丘方面に住んでいたので、大津方面に抜ける時に山越えルートとして、その辺を通ってました。
当時はどんぐり山と言われ、椎の木が沢山茂ってました。
その過程で、曲り矢遠隔観測所にも訪れた事がありますが、今となっては資料すらほぼ皆無の幻の観測所となってしまいました。
ヒギンズ壕のように、その時行かなければ2度とチャンスが訪れない所が多くなってきています、出切る限りの探索を行って行きます。

No title

そう、どんぐり山でした。何年ぶりにこの名前を思い出したことでしょうか。あのあたりの山一帯は、ほとんどが土砂災害警戒区域に指定されているでしょうから、広島の災害のようなことがあると防災工事が加速し、昔の景観は今後も失われ続けていくことでしょう。しかし、桜が丘ですか。私がどんぐり山で遊んだ小学生の時にはなかった町名です。私と同年代の人の中には、桜が丘を見て「当時の遊び場のほとんどは宅地になった」と思っておられる方もあるかもしれません。私が小学生の時には、訓練中の自衛隊員がどんぐり山から下りてきて、近くにいた人に「すみません、ここはどこですか」と聞くというちょっとした事件がありましたが、こんなに宅地ばかりになってしまっては、訓練のしようもありませんね。

〇で育った者様

桜ヶ丘の造成が始まってから、もう40年近く経ちますが、吉井方面と道が繋がり、大分様変わりしたようですね。
大津方面も急傾斜地工事がかなりのペースで行われている様で、我々にとっては遺構が潰れ、残念な結果となってますが、災害防止のためには致し方がありません、無理な宅地造成は別問題ですがね。
迷子の自衛隊員は防大の行軍訓練中だったのでしょう、久里浜駐屯地の可能性もありますけど・・・ちょっと遠いかな?