勝浦 行川弾薬庫(行川アイランド)その1
遠征予定だったが、メンバーの都合が合わず中止となり、急遽暇となった
しかたなく一人探索に向かうことにする、目的地は勝浦周辺の旧軍遺構とするのだが、途中そういえば行川にもなんか有ったなと思い出し、ついでに寄ってきた。
冒頭に少し行川アイランド所有者だった「日本冶金工業株式会社」について触れておく、震洋隊守谷特攻基地所属 鵜原火薬庫でも触れた会社であり、住宅設備メーカーNASのステンレスメーカーで知られる会社である。
1925年 - 消火器を製造する「中央理化工業(株)」として設立。
1928年 - 火工品・火薬品(軍事兵器関連)も取り扱うことから社名を「日本火工(株)」と改める。
1942年 - 現社名「日本冶金工業(株)」に改める。
同年 - 火工品・火薬品部門を「昭和火薬(株)」(現「日本工機(株)」)へ譲渡。
1952年 - 「日本火工(株)」(前述の昭和火薬が改称したもの)を吸収し、火工品・火薬品部門を設立。
同年 - 同部門がアメリカ軍特需砲弾類の製造を担当。
1955年 - ヘキソーゲン爆薬(RDX)の製造を開始。
1958年 - 12,7ミリ機関銃弾の一貫生産を開始。
同年 - 火工品・火薬品部門を分離し、軍事関連事業から撤退(分離された火工火薬事業は「昭和火薬工業(株)」=現「日本工機(株)」として独立)
2001年 - 行川アイランド(遊園地)を閉園。
現在も一部上場企業として活躍中。
暗部
1933年から太平洋戦争末期にかけて兵器に不可欠なニッケルを確保するため京都の大江山から採鉱。日本海に面した岩滝町の製錬場まで専用鉄道(加悦鉄道)で輸送し、製錬した。この大江山ニッケル鉱山では、当時の日本の植民地だった中国・朝鮮から多くの人が徴用されたほか、イギリス人、カナダ人、オーストラリア人、アメリカ人などの連合軍捕虜も強制労働に従事させられた。
中国人原告6人が強制労働損害賠償を、日本冶金工業および国を被告として、1人あたり約2200万円の損害賠償の支払いと謝罪広告を求めて京都地方裁判所に提訴した。
なお、イギリス人、カナダ人、オーストラリア人、アメリカ人などの連合軍捕虜からの請求は無い模様
最終的に、日本冶金は裁判所の和解勧告を受け入れ、原告1人あたり約350万円(計約2100万円)を支払うことで2004年9月、一部和解が成立した。
国は、大日本帝国憲法下においては国家の権力作用に対して損害賠償請求を認める法制度がなかったという「国家無答責の法理」を否定したものの、20年の「時効・除斥」期間経過を理由に、原告の請求を退けた。
まぁ、1929年には日本にステンレスが有った事と、当時日本冶金工業は軍需産業でも有った事を覚えておこう
現在は閉園になっている、行川アイランドに軍の弾薬庫が在ったとの事で痕跡を探しに行ったが、基本的には震洋隊守谷特攻基地所属 鵜原火薬庫と同じように地上式弾薬庫だったと思われ、レジャー施設化された地上にはなんの痕跡も見当たらなかった。
地形的にはお椀型の敷地を持ち海側に開けている、軍事的には非常に適していると言えるだろう

適当な時間に家を出るが、寒い!

夜明けのちょっと湿ったアクアライン

鴨川を目指す

暴走スカイラインは有料となっているが

行ってみたら無料化されていた

市街を抜け、勝浦へ

今は虚しい道標

おざなりのバリケードと朽ち果てた立哨小屋がある

取り敢えず駐車場に車を止める(無料)

早速園内に行く

ここからは入れない

獣道を越えて行く

早速最初のトンネルに遭遇、正門トンネルと違い古いコンクリートアーチ

壕内はレジャーランド時に近代コンクリートに改修されている(天井部は不明だが、より古そうだ)

側面部のみ、電灯設備を作る為に(補強を含み)塗り直したのだろうか?

園内側から見た隧道(交通壕だろう)

鬱蒼とした広場に出た

右を見ると新たな隧道

こちらは途中まで近代化改装されているが

真ん中付近は吹付けで、安く済ませてある(元は素掘りの壕だったのだろう)

電球の残る照明跡

出口前で、再び分厚いコンクリートに戻る

抜けた先は、自然に帰っていた

僅かに残る道跡を、草を掻き分けながら進む

ふと見ると、右は柵も何もない崖であった、落ちたら痛そうな高さだ

石垣沿いに軽トラサイズの道が続く

イベント広場的な所に出た

壁に何やら穴が開いている

吹付けコンクリートに波の模様が描かれている

脇道が見える、期待度上昇!

遂に素掘り状態の壕を発見した

しかし、なんだこれは!まるで水族館のようだ

それにしても、壕内表面の剥離がすごい

水槽内部を上から見る、魚は居なかったがものすごい状態だ

当時はこの水槽にシーラカンスとか、泳いでいたのだろうか?

水槽に沿って曲がる道と、まっすぐな明らかな軍掘り壕に分岐する

水槽沿いのルートは、おそらくループして元の通路に戻るだろう

やっぱり自分は、同じ地下でも素掘りの方が落ち着いて好きだ

人が掘ったという温もりを感じる、コンクリート通路は無機質でつまらん!

上写真の右上にぶら下がる小森さん

軍掘りの基本である、曲がった壕内(直線だと入口で撃たれれば終わりだし、爆風避けでもある)

ここでまた、分岐路がある

左にも出口が見えている通路があるが

まずは終息が近い方から見る

穴の出口

外の空気を吸って、一息着いたところでもとの穴ぐらに戻る
どうでもいいが、この水族館は営業していたのだろうが、なんで連絡隧道はあんなにコンクリート使っていて、子供の入りそうな水族館は素掘り剥き出しなんだ?
自分はこの方がいいが、一般的には危険だろう!それ以前に良く営業許可が下りたと思う
ある意味事故が起こる前に閉園になって、良かったのでは無いか?
民間企業である「日本冶金工業株式会社」はこのレジャーランド管理者に自企業の金属畑で仕事をして来たレジャー施設経営経験ゼロの人を据えている。
こういう無理な人事も閉園のへの拍車を掛けたのだろう。
しかたなく一人探索に向かうことにする、目的地は勝浦周辺の旧軍遺構とするのだが、途中そういえば行川にもなんか有ったなと思い出し、ついでに寄ってきた。
冒頭に少し行川アイランド所有者だった「日本冶金工業株式会社」について触れておく、震洋隊守谷特攻基地所属 鵜原火薬庫でも触れた会社であり、住宅設備メーカーNASのステンレスメーカーで知られる会社である。
1925年 - 消火器を製造する「中央理化工業(株)」として設立。
1928年 - 火工品・火薬品(軍事兵器関連)も取り扱うことから社名を「日本火工(株)」と改める。
1942年 - 現社名「日本冶金工業(株)」に改める。
同年 - 火工品・火薬品部門を「昭和火薬(株)」(現「日本工機(株)」)へ譲渡。
1952年 - 「日本火工(株)」(前述の昭和火薬が改称したもの)を吸収し、火工品・火薬品部門を設立。
同年 - 同部門がアメリカ軍特需砲弾類の製造を担当。
1955年 - ヘキソーゲン爆薬(RDX)の製造を開始。
1958年 - 12,7ミリ機関銃弾の一貫生産を開始。
同年 - 火工品・火薬品部門を分離し、軍事関連事業から撤退(分離された火工火薬事業は「昭和火薬工業(株)」=現「日本工機(株)」として独立)
2001年 - 行川アイランド(遊園地)を閉園。
現在も一部上場企業として活躍中。
暗部
1933年から太平洋戦争末期にかけて兵器に不可欠なニッケルを確保するため京都の大江山から採鉱。日本海に面した岩滝町の製錬場まで専用鉄道(加悦鉄道)で輸送し、製錬した。この大江山ニッケル鉱山では、当時の日本の植民地だった中国・朝鮮から多くの人が徴用されたほか、イギリス人、カナダ人、オーストラリア人、アメリカ人などの連合軍捕虜も強制労働に従事させられた。
中国人原告6人が強制労働損害賠償を、日本冶金工業および国を被告として、1人あたり約2200万円の損害賠償の支払いと謝罪広告を求めて京都地方裁判所に提訴した。
なお、イギリス人、カナダ人、オーストラリア人、アメリカ人などの連合軍捕虜からの請求は無い模様
最終的に、日本冶金は裁判所の和解勧告を受け入れ、原告1人あたり約350万円(計約2100万円)を支払うことで2004年9月、一部和解が成立した。
国は、大日本帝国憲法下においては国家の権力作用に対して損害賠償請求を認める法制度がなかったという「国家無答責の法理」を否定したものの、20年の「時効・除斥」期間経過を理由に、原告の請求を退けた。
まぁ、1929年には日本にステンレスが有った事と、当時日本冶金工業は軍需産業でも有った事を覚えておこう
現在は閉園になっている、行川アイランドに軍の弾薬庫が在ったとの事で痕跡を探しに行ったが、基本的には震洋隊守谷特攻基地所属 鵜原火薬庫と同じように地上式弾薬庫だったと思われ、レジャー施設化された地上にはなんの痕跡も見当たらなかった。
地形的にはお椀型の敷地を持ち海側に開けている、軍事的には非常に適していると言えるだろう

適当な時間に家を出るが、寒い!

夜明けのちょっと湿ったアクアライン

鴨川を目指す

暴走スカイラインは有料となっているが

行ってみたら無料化されていた

市街を抜け、勝浦へ

今は虚しい道標

おざなりのバリケードと朽ち果てた立哨小屋がある

取り敢えず駐車場に車を止める(無料)

早速園内に行く

ここからは入れない

獣道を越えて行く

早速最初のトンネルに遭遇、正門トンネルと違い古いコンクリートアーチ

壕内はレジャーランド時に近代コンクリートに改修されている(天井部は不明だが、より古そうだ)

側面部のみ、電灯設備を作る為に(補強を含み)塗り直したのだろうか?

園内側から見た隧道(交通壕だろう)

鬱蒼とした広場に出た

右を見ると新たな隧道

こちらは途中まで近代化改装されているが

真ん中付近は吹付けで、安く済ませてある(元は素掘りの壕だったのだろう)

電球の残る照明跡

出口前で、再び分厚いコンクリートに戻る

抜けた先は、自然に帰っていた

僅かに残る道跡を、草を掻き分けながら進む

ふと見ると、右は柵も何もない崖であった、落ちたら痛そうな高さだ

石垣沿いに軽トラサイズの道が続く

イベント広場的な所に出た

壁に何やら穴が開いている

吹付けコンクリートに波の模様が描かれている

脇道が見える、期待度上昇!

遂に素掘り状態の壕を発見した

しかし、なんだこれは!まるで水族館のようだ

それにしても、壕内表面の剥離がすごい

水槽内部を上から見る、魚は居なかったがものすごい状態だ

当時はこの水槽にシーラカンスとか、泳いでいたのだろうか?

水槽に沿って曲がる道と、まっすぐな明らかな軍掘り壕に分岐する

水槽沿いのルートは、おそらくループして元の通路に戻るだろう

やっぱり自分は、同じ地下でも素掘りの方が落ち着いて好きだ

人が掘ったという温もりを感じる、コンクリート通路は無機質でつまらん!

上写真の右上にぶら下がる小森さん

軍掘りの基本である、曲がった壕内(直線だと入口で撃たれれば終わりだし、爆風避けでもある)

ここでまた、分岐路がある

左にも出口が見えている通路があるが

まずは終息が近い方から見る

穴の出口

外の空気を吸って、一息着いたところでもとの穴ぐらに戻る
どうでもいいが、この水族館は営業していたのだろうが、なんで連絡隧道はあんなにコンクリート使っていて、子供の入りそうな水族館は素掘り剥き出しなんだ?
自分はこの方がいいが、一般的には危険だろう!それ以前に良く営業許可が下りたと思う
ある意味事故が起こる前に閉園になって、良かったのでは無いか?
民間企業である「日本冶金工業株式会社」はこのレジャーランド管理者に自企業の金属畑で仕事をして来たレジャー施設経営経験ゼロの人を据えている。
こういう無理な人事も閉園のへの拍車を掛けたのだろう。
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コメント
No title
2021-03-12 19:47 ガーゴイル URL 編集
ガーゴイル様
2021-03-12 20:46 yakumo URL 編集
ちなみに地元民は日本冶金工業(冶金興産)の行川アイランドには感謝しており、地元民をかなり優遇してくれていました。所有者が変わった現在も行川アイランドの正門のカギを地域として預かっており、磯場での漁がある時は行川アイランド正門から入って磯へ向かいます。
2023-08-19 22:49 地元民 URL 編集
地元民様
自分も調べていてナメガワもしくはナメカワだと思っていました。
土地の読み方は難しいですね、交差点のローマ字読みで知る事が多いです。
2023-08-20 06:55 yakumo URL 編集