呉 コンクリート曳航式油槽船

江田島からの帰り道、白い橋が見えてきた

487号線白瀬大橋

車移動の難点は、ゆっくり橋の下が見れないことだな

白い島、三ツ子島が見えてきた、メキシコ産の工業塩を輸入し貯蔵するための場所になっているのだ

昭和初期以降、この島には大日本帝国海軍が伝染病予防のための消毒施設(検疫所)として「呉海軍病院三ツ子島消毒所」を置いていた、元々海軍は明治時代には広島湾内にあった似島消毒所を用いていたが、老朽化と組織再編に伴いこの地に消毒所を設けることとなり、1923年(大正12年)9月着工、1928年(昭和3年)11月竣工した、この建物の基礎が今も島に残されている。
また島に空母天城が碇泊されていたが呉軍港空襲により損傷し浸水横転のうえ着底している。

下に移っているのが天城である、この他にもミッドウエーで沈んだ4空母の乗員や、爆沈した陸奥の乗員もこの島に一時的に隔離されている事で有名である。

防波堤建設記念碑が目印となる

一見それとは解かり難い

左の舳先を見ると、船なのが解る(コンクリート船のせいで良く見ないと区別出来ない)

回り込んで、近寄っていく

これが「コンクリート曳航船」である

船殻が割れてしまっている

先に上げたコンクリート船武智丸と違い、船首は丸い

船首に楊錨施設が無いのも曳航船のせいなのか?

船首が鉄板で覆われている所は同じだ

給油口だろうか?丸い穴を埋めた跡がある

船首の上はのっぺらとしていて、何も無い

船体上部、左側の壁は後に防波堤として増設されたもの

前方方向を見ると、船体下方がずんぐりとタンク状になっているのがわかる(階段は後ずけ)

この部分は防波堤として足りない高さを増設したもの

先端まで来た

船尾から眺める、知らなければただの不恰好な防波堤だろう

こうすると、船の原型がなんとなく掴める気がする

地元に溶け込み、これからも港を波から守る防波堤としての余生を末永く過ごして欲しい

さて、帰ろう呉市内に!
コンクリート曳航式油槽船とは、昭和17年(1942)から計画・研究が開始され、昭和18年(1943)に合計5隻が建造された無人の曳航式油槽船、要するにタンカーである、実際には自力航行が出来ないので、輸送任務にも就けずに軍港内で浮きタンクとして使われただけだった、元々「武智丸型」のたたき台として建造された物なので、試作の粋を脱しないのだろう
この他にも山口県下松市の笠戸湾内に座礁放置されているのがもう一隻現存しているそうだ
総積載量 1200t、全長 52m、全幅 5.8m
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