京都 三十三間堂 (蓮華王院本堂)

三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)は京都府京都市東山区にある仏堂、建物の正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)。
この地には、もともと後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿があった。その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂、今に言う三十三間堂である。

上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて旧暦の長寛2年12月17日(西暦1165年1月30日)に完成したという。
創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、建長元年(1249年)の火災で焼失した。
文永3年(1266年)に本堂のみが再建されている、現在「三十三間堂」と称される堂がそれであり、当時は朱塗りの外装で、
内装も極彩色で飾られていたという
上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて旧暦の長寛2年12月17日(西暦1165年1月30日)に完成したという。
創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、建長元年(1249年)の火災で焼失した。

文永3年(1266年)に本堂のみが再建されている、現在「三十三間堂」と称される堂がそれであり、当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという

三十三間堂は、京都駅から徒歩15分ほどで行けるので、お手頃な物件である(個人差あり)
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秋空に京都タワーが良く映える
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京都駅0805スタートする
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塩小路通りで船鉾を見る
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鴨川通過、この辺の川辺は今一つ味気ない
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新しいお店が出来ていたが、開店時間前だ
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太閤塀を眺めながら歩く、豊臣秀吉が寄進した物で、瓦には豊臣家の家紋である「五七ノ桐」が見える
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南大門から進入する
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内側から見た南大門
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カラフルな建物が見えてくる
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東大門からは入れない
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法住寺に寄って見る
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中華風の門をくぐっていく
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残念ながら土日祝は後白河天皇法住寺陵には入れない様なので手前だけ見ていく
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白洲の御庭
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本来はこっちから入るんだろう、裏門から入ったようだ
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三十三間堂は、元々は法住寺殿内のお堂のひとつとして造営されたのだが、殆んど知られていないだろう
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養源院
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源光庵の「血天井」なる物が有名だが、血生臭いものは好きではない
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江戸時代の養源院は、一般の人は参拝できず、将軍家や大大名という、高貴な身分の人だけに参拝が許されていた、誰もが拝観できるようになったのは明治時代に入ってからのことである。
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この先が本堂なのだが、時間の関係で今回は行けない、この時点で0830
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ようやく目的地、三十三間堂に到着(北側からしか入場出来ないのが難点)、ちっちゃく京都タワーが見える
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入場料600円払って中に入る
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とりあえず本堂に入って御朱印もらったりしたのだが、当然の撮影禁止なので自粛
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三十三間堂は南北に長い、こっちは東側になる、平安時代に建立された三十三間堂であるが、驚く事に耐震構造を持っている
簡単に言えば、地震が起こればお堂が大きく揺れて衝撃を吸収する構造になっている
基礎地盤には「版築(はんちく)」を用い、堂内の屋台骨には、柱間を2本の梁でつなぐ「二重虹梁(にじゅうこうりょう)」を採用した、
柱や長押、梁には“揺れること”を前提にした設計が取り入れられている。
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遊歩道を歩くコース
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先に説明した法住寺の一部だった事の説明等
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池泉と回廊塀
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手水舎
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三十三間堂の中央部
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木造風神・雷神像、木造二十八部衆立像や、千体の千手観音立像がこの中に並んでいるのだが実は千一体いると言う。
インドでは「1000」という数字が無限を表すとされており、千体の観音様が「功徳が無限である」ことを示している。
三十三間堂には千手観音坐像を含めて全部で千一体の観音様がいる、「千」に「一」を加えた千一という数は、無限を超えたさらに先があり、無限に多大であるとの意味があり、「無量」の力を持つことを表現している。

更に観音様は千一体でもない、千手観音坐像の裏側に(西側廊下から見える)、ひっそりと千二体目の観音様がいるのだ。
他の観音様と違い、一体だけ室町時代に作られており、かつては各地に出張してご寄進を募るために用いられていたそうだ

ちなみに実は観音様が千体揃って見られることはほとんどないのである、常に修復や美術館への貸し出しが行われているため、すべて揃うのは特別イベントの時のみである、毎年約20体が修復にまわされて、代わりに不在札が立っている
千二体もいるから、名前札を置かないと元の位置が解らなくなるのだろう、もちろん全部に名前が付いているそうだ。
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東大門の内側
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鐘楼
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三十三間堂南側、吉川英治の『宮本武蔵』で、武蔵と吉岡伝七郎が決闘する場所として有名だが、実際の決闘場所は「京都洛外」としか伝えられておらず詳細は不明、単なる想像だろうと思われる
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いよいよ西側の廊下に回ってきた、有名な「通し矢」の射場である
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通し矢と言うと、隙間を通すみたいな印象もあったが、一昼夜を通して矢を放つ事が語源のようだ
種目は大きく分けて4種目あった
大矢数…一昼夜にどれだけの本数を射通したかを競った。距離は全堂・半堂・五十間・四十間(江戸)。
日矢数…日中にどれだけの本数を射通したかを競った。距離は全堂・半堂。
千射…千本中の通し矢数を競った。距離は全堂・半堂・五十間。江戸ではそれに加え六十・五十五・四十五・四十間。
百射…百本中の通し矢数を競った。距離は千射に同じ。
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最高記録者は、紀州藩 の和佐大八郎氏で、大矢数により総矢数13,053本、通し矢(当たった数)8,133本である
この記録は現在も「天下一」の称号と共に抜かれず残っている
余談だが、この人は射る度に少しずつ前に進んだというのが、目撃されているそうだ・・・・
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柱に鉄板が巻いてあるのが見えるだろうか、これは大量の射損じた矢があたる位置であったため、補強として徳川家光が作らせたものだそうだ
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ちょっとズームしてみたら、矢が一本刺さったままだった、疲れて来ると軌道が山なりになって天井に刺さるのだろう
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通し矢の基本姿勢は座った状態で少し上に向かって射る、立ったまま射ると、天井に当たって遠くまで飛ばないためだ
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通し矢の会場は京都蓮華王院(三十三間堂)だけではなく、江戸三十三間堂(深川)にもあったが現在は焼失
東大寺大仏殿西回廊でも少々距離は短いが、競技が行われたそうだ
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久勢稲荷大明神
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特に説明の無い石碑
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「さんじゅうさんげんどう」と読むのは本来は間違いらしい、尺貫法の「間(けん)」から名前が付けられているという間違った俗説が広まり、お堂の全長が「33間(約60m)」だと誤解されることも多いが、実際は尺貫法とは関係なく、千手観音像をおまつりしている場所の柱間が33間(ま)であるところからその名前がついたようだ。(いまさら変えられやん!)
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拝観が終わって0845退門、京都駅まで余裕で走って戻れる時間だ、新幹線の時間が余裕あれば、行ってみるといい
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